諸星未来堂ワープ日記
寒いぞ十一月第三週
MOROBOSHI Tomorou's
Warp Diary
1998 November 3rd Week
Japanese-Language Contents
リレー小説プロジェクト【StorieS Re:turnS】 君も書き込むんだ!(くわっ!)
981121b[ BBS "Sci-Fi Kun!" / 掲示板『SFくん!』出現 ]
Sci-Fiなる人と、そうでもない人のための……
諸星未来堂
SFくん!
=== Tomorrow Land Sci-Fi Kun! ===SFが好きな人が集うのは……そう、SF研。
じゃぁ、そこに集う人は?……そう、SFくん!
ここはワープ日記のSF・特撮関連トピックスの報告のために出現した掲示板なんだ! しかし、それだけにとどまらずSFが好きなキミとボクがSFについて語ってしまう場になってしまいたいんだ!
ワープ日記のSF・特撮ネタ、つまり、読書感想文とか映画感想文とか(あえて「書評」「映画評」とは呼ばない)専用のインデックスを整備しなくてはな、と思っていた。何せワープ日記は分量が多いのでそういう記事が、日常生活やら旅行記やらなんやらかんやらの中に埋没してしまうのだ。
そういうわけでインデックスを作成……するのが面倒だったので、専用のきのぼーず掲示板を用意してみたのだった。。
「えすけふけん」ならぬ「えすえふくん」なところがミソなのだが……悪かった、無理して笑わなくていいからさ、そこ。
と、いうわけで、これから新しいSF関連記事タイトルは、この掲示板の方にも登録していくのでよろしく。
特に「SFネタには興味あるが諸星友郎の日常生活とかWeb日記論とかウクレレ話は読みたくなかったんだよな」という人には最適!
とは言っても、内容そのものは掲示板じゃなくてワープ日記の上に置いておくつもりなんだけどね。
問題は過去の記事なんだよなぁ。いまから登録すると時系列がめちゃくちゃになるんだよなぁ。けどいいかぁ。適当にやるか適当に。
とりあえず万人書込オッケーってことになってますんで、SF談義に使ってもらってOK。めちゃくちゃ盛り上がったらいずれはWeb-Zineとかいう遠大な野望もなきにしもあらず。閑古鳥ないたらオレが一人でワープ日記SFインデックスとして使うなりよ。
981121a[ daily life / 日常生活(土) ]
福岡晴れ。と思っていたら曇天だった。どんより。
大森アニ伝言板の大森アニの投稿によると、第19回日本SF大賞は瀬名秀明の『BRAIN VALLEY』に決定、だとか。
うぅむ。
オレ的には「最高の話題作」だったとは思うが、決して「最高に面白い作品」ではなかったと思う。まぁ、日本SF大賞が何に対して送られてるのか実はよく知らないから、聞いたこともないようなけどSF界内部でだけ有名な作品が選ばれるよりは「あぁ、あれか、あの分厚くて難しそうな。けど売れたんだよねぇ?」って作品が選ばれる方がいいと思う。
けどなぁ。「ぶれいんばれー」か。「最高に面白い作品ではなかった」というよりも「最高に面白くない作品だった」ってのがオレ的には適切だなぁ。無礼がばれるようにあえてかけば「最高に面白い、というわけではなかった」じゃなくて「面白くなさが最高レベルだった」という感じか。いいすぎか。
まぁ、分厚すぎたからかなぁ。説明が長すぎたからかなぁ。オチがすっきりしないからかなぁ。あのオチは「SF」じゃないよなぁ。科学ネタ小説かもだが。まぁ「あれはSFじゃないよな」っていう台詞はSFファンの困った性癖だよなぁ。「作品の好き嫌い」と「SFという基準に合致するかどうか」という別のベクトルを自在にあやつって「SFじゃないから嫌い」なのか「嫌いだからSFじゃない」のか、自分でもわからないという。
何はともあれ、自分が読んだことがある作品がSF大賞に選ばれたので、なにがしか語れたからオレ的にはよかったよ。
なんか、オレの言い様が、なーんか歯切れが悪いと思う人は「ブレイン・ヴァレー座談会」971228の発言582以降の「暴言編」あたりを読んでいただくと吉かも。
……ってちょっと読み返したけど、なんか単なる雑談で、批判でもなんでもないなぁ。暴言ですらないし。ま、いいか。
そういうわけで、どうも朝から釈然としない。
昨日の日記に「ヒロスエのビデオ」と書いたのだが、なんか自分で書いておいてなんとなくイヤラシゲな響きがあるなぁと思って謎めいていたのですが「ヒロスエのビデオ」って言葉。本日やっとピンときましたね。文字列の中から「エロビデオ」ってのを抽出して読んでいたらしいですね。あるいは「エロスビデオ」。
ダメですね。朝から何バカなことを言っているんでしょうか? 仮眠とりましょ。
(仮眠……のつもりが本眠)
寝過ごしたら大ボス様から怒られたよ。がーん。
うーむ、「2次著作物の公開には1次著作物の著作権者の許可が必要」ってのは、あたりまえだと思っていたが、許可無く2次著作物を作成するのは、本当に著作権の侵害にあたるのか?
ひょっとすると、意匠とか登録商標とか、知的財産権の侵害にあたるんで、著作権の侵害にあたらないんじゃ?
いや、別になんか根拠があるわけじゃなくて、あたりまえに「そりゃ侵害だよな」と思っていただけで、よく考えたらサンライズの文章で初めて文章として見たから。
条文みれば、書いてありそうだな。めんどうだな。放置。
(981121追記:著作権の侵害になるそうです。janus藝夢日報981121参照。さらに、981030を読む。やっぱ知的財産権ですか。そして著作者人格権無敵!)
最近、ワープも没記事が多い。
「もやもやと言いたいことがわからなかったのが、文章にすることではっきりする」ってのは、文章を書く効用の一つであるが、だからといってそれを公開しなくちゃならないというわけでもあるまい。
共有しない方がいい知識もある、ってことで。
まぁ「完成度が低い」という理由なのだが。
(まず、いろいろと偉そうな断定調で書いて、あとからフォローが入るので、そのつもりで読むと吉)
「考え事のログの公開の是非の話」
考え事をしながら、だらだらと文章を書いていって、それを公開してしまうという行為がある。
これは、これで、意味がある行為である。
一般に「よく考えてから書きましょう」とか「頭から、考えながら書いて、唐突に最後に結論を書いたり、あるいは結論を書かずに終わったりする文章を書いてはいけません」と言われるわけだが、「考え事している途中経過」は、最終的に整理された文章からは伺い知ることができないわけで、この「考え事の軌跡」あるいは「考え事のログ」は、著者が何をどういうふうに考えているかを知るのに役に立つ。
「そんな、だらだらとまとまらない文章は読みたくない」という人は読まなければいいだけの話だ。「まとめてくれ。そしたらそれだけ読む」というのはアリだが、まとめる義務はないのだ。「最初からそういう論説文が存在しない」と思えばいい。ただし、まとめてない「考え事のログ」の文章をもって「オレはこれこれこういう主張をした」と言ってはいけない、ということだ。考え事のログを持ってして「これをよく読んでオレの思考を読みとれ」というのは、よろしくない。
問題は、公開する以上、思考の軌跡の文章、考え事のログに書いたことにも責任を取らねばならないということだ。「これは独り言なので書いたことに関する苦情・質問などはごめんこうむります」とは言えまい。それではただの「放言」だ。
と、いうわけで、「考え事のログの公開は有意義だ」「しかし公開すると責任を取らねばならない」となる。すると「親しい友人や誤読しない人に対して公開するのはどうだ?」ということになり、結局のところ「自分のことをよく知っているから誤読する可能性の低い人、自分が問題発言をしても暖かく見守ってくれる人に公開すべし」ということになる。(「暖かく見守ってくれる」って言葉がネガティブな誘導語だな。いかん)
考え事のログは、ブレーンにだけ公開して、考えを練った上で万人向けの文章にしてから公開すべし、だ。
ブレーンに公開しておしまいでもいいのかもしれないが、それだけでおしまいにしていると「基本的に自分と同じ事を考えている人と、自分らが同じ事を考えていることを確認する作業」ばかりやって「自分と同じ事を考えない人に自分の考えを伝えること」ができなくなる。
ここでは、「きちんとした論説文を書けば、自分と同じ事を考えてない人に、自分の考えている事を伝えることができる」ことを暗黙の内に認めている。「本当に考えていることがそのまま伝わるのか?」という点は議論の余地が残るが「実用上充分なレベルで伝わる」とする。また、「伝わる」とは「合意にいたる」とか「相手の説得に成功する」ことを意味しない。逆に言えば「きちんとした論説文でなければ、自分と同じ事を考えている人にしか、自分の考えている事は伝わらない(こともある)」ということを暗黙の内に認めている。
世界の圧倒的多数の人は「自分と同じ事を考えない人」である。よって、「わかる人にしかわからない」「わかる人だけにわかってほしい」「しょせん人はわかりあえない」という言葉で「自分と同じ事を考えない人に自分の考えを伝えること」を放棄してはいけない。
と「してはいけないのではないか?」とか「してはいけないのではないかと思う。」とか書きたいところだが、オレのWeb日記にオレが書いてる文は何も言わなくても、全部オレが思ったことだから「と思う」は書かなくてもいいはず。根拠のない断定になってしまうのが問題だが、不審の向きは「これは根拠のない断定だ」と批判するなり「根拠のない断定をしているのだから信念の表明だろう」と解釈するなりすればよい。
というのが『論理的に書く方法』小野田博一、日本実業出版、を再読して読みとった内容なのだが、やっぱりこの書き方をWeb日記でやると軋轢を生むな。
しかも「根拠がないなら根拠がなさそうに。論説する気がないなら論説文に見えないように書け」っていうオレのポリシーにも反するな。
よくわからんが、こういう傾向を「ひとえまぶた系日記」というのだろうか? よくわからんが。
あ、しかも、考え事のログをいきなり公開しているし。
あ、けど「批判・質問はうけつけません」とか言ってないならいいのか。批判・質問の類には、こちらが答えられる範囲でお答えする用意があります。ただし、重箱の隅をつつきながら、一晩で100kbぐらいの文章でお答えするかもしれませんからご了承ください。(って書いたら牽制してることになってしまうな。別に牽制する気はないけど、答えた後で「こんなに膨大に書くとは、さては罠だったのか!」とか思われたら困るというか。そう思われないように短く返事せれよ>おれ)
相互にリンクしたWeb日記というのは実は議論をする場ではない。
相互にリンクしたWeb日記というのは「ブレインストーミング」あるいは「連想ゲーム」をする場なのだ。
一つの議題について語り合う場ではなく、誰かが掲げた「トピックス」「テーマ」「キーワード」に関連して、自分の言いたいことを次々に発言する「場」なのである。
であるからして、話は噛み合わないのだが、それでよく、関連した「キーワード」から連想されたいろいろな人のいろいろな考えや思いを眺めるのに意義があるのだ。
その中に一つ、二つ「あぁ、いい話を聞いた」と思える文章に出会えたら、それだけでこの「連想ゲーム」には価値があったのだ。
この一つや二つの「あぁ、いい話を聞いた」の前には、十や二十の「あぁ、いやな話を聞いた」は気にならない。気にすべきではない。気にするな。
たとえそれが百や二百でも、だ。
SF掲示板「SFくん!」を作った話は別項。
うー。なんか、木金土あたりが合体していて、きちんと睡眠を取ってないので、なんだか日付の概念というかがおかしい。この21日の日記なんだか、いったいどこまでを仮眠前に書いたのかよくわからない。寝過ごして大ボス様に怒られたのは、今日の出来事なのか昨日の出来事なのか……?
前の前の節の「たとえそれが百や二百でも、だ。」ってオチもいつ書いたものやらどうもはっきりしないなぁ。寝る寸前に書いたような気もするし、起きて書いた気もするし、うーむ?
まぁ、いいか。いつか書いたかいまひとつピンとこないが、書いてる内容が変でもなさそうだし。
八反安未果「Miss You 忘れないで」を買う。「おぉ、ヒッパレでおなじみのハッタンアミカ、ついにCDでびうか」とレジに運んでしまったあたりが、事務所の作戦に乗せられているな。
うーん、イヂチ歌なのだが、なんか声はりあげる部分が多くて、一瞬「演歌?」と思ってしまうオレなのだった。(おいおい、間奏にWhiteLoveが混じってないか? あ、イントロからしてそうだ)
どっちかというとC/Wの「Carry On」の方が面白いなぁ。ハッ!「どっちかというとC/Wの方が面白い」ってのはSPEEDのシングル買う度に言っている気がするぞ。イヂチの罠にはめらてるのか?>オレ。
Web日記で面白いこと、二つ考えた。
1.「引っ越さない日記」
現実の自分は転勤転職卒業その他の事情で引っ越したにもかかわらず、日記の中では、昔の住所に住み続けていることにする日記。「今日の風景」の類を去年のデジカメ画像から流用すると、ますますそれらしい。
現実世界の自分と日記上の自分を切り離すために、日記から住所に関するデータを消去するってのはありがちだし、ネットのトラブルから引っ越すってこともあるだろうけども、ネット上では昔通りある街に積み続けているのに本人は移動してしまうのだ。ネット上の方が整合性があるのだ。あー怖い。
2.「交換日記」
二人がペアになって、それぞれ相手の日記を書くのだ。役割交換なのね。交換殺人の交換。(をい、何を突然、怖い単語を持ち出す?>オレ)
うそ旅行日記ぐらいなら、できそうだな。明日オレが突然、阿蘇にドライブに行ったりしたら、それは疑った方が吉。
Web日記考のページを、Web日記考・掲示板に移行。
更新が楽そうだから。
「カキフライ定食の満足曲線論」
GTがカキフライ定食に対して「5個ぐらいなのはバランスが悪くないか?」と思い続けていたことを、ワープ日記981117aに書いた。
そして、はち日記981118にて「GTさんの満足比率って 、普通の定食ではごはんに対しておかずの量が少ないー、 という主張と思っていいのかしら ? それともカキフライとウナ丼限定の話なのかなあ。」と疑問が提示されているのでそれに対する返信。
冬山で修行中のGTから電波ならぬ念波に乗ってメールが戻ってきたので(うぞ)紹介すると
「カキフライとウナ丼限定の話だ。確かに喫茶店などのランチはご飯とオカズのバランスが悪いことがあるが、それは店によってまちまちだ。ところが、カキフライはだいたいどこに行っても5粒ぐらいで、オレは常に不満足を感じている。ウナ丼においてもしかりだ。これが、満足できる店、多すぎる店、少なすぎる店が存在するなら気にならない。」とのこと。
どうもGTは、カキフライとウナ丼の比率が地球とは異なる惑星の出身らしいぞ。
「思い入れあるものに理屈を求める者、それは……」
はち日記981121のお話。
はちさんは、みのうら@風虎日記さんがBBSで「自分の中の12才のSFファンを解放すると『SFは世界で一番偉い:理由>SFだから』などの、根拠が説明できない上に同一発言の中に矛盾がある発言をしてしまう」(要約オレ)と発言していることに共感を示し、「あたしが、物事に対して「好きだ」と思った時、 いわゆる「思い入れ」を感じた時ってのは、 もう、根っこの部分では、理屈なんて関係ないんだよね。」と発言している。そしてその直後、それでもなお理屈をつけてしまう自分の行為を分析して「あらゆる物事に説明を求めるのが人間だからだ」と高らかに宣言している。
はちさん。「人間だからだ」の前に、「自分の思い入れのあるあらゆる物事に説明を求めるのがオタクだからだ」というのが来るのでは?
あ、いや、もちろんオタクだって人間の一種ですが。はい。
オタクの定義にもいろいろあるだろうけども「自分が好きだと思う物に対して、自分がなぜそれが好きなのかを理屈で説明せずにいられない精神構造」が、オタクの定義の一つだとオレは思う。
であるからしてオタクの人は「どーしてそんないろいろ考えるん?『好きだから好き』でいいじゃん?」と言われると「どうして好きなのか説明できないといけないだろ!」と反応してしまうわけだ。
そういうわけで、オタクな人は、自分が好きなものに対して「自分がなぜこれを好きなのか? どうしてオレはこれを好きでいいのか?」を追求し、逆に自分が嫌いなものに対して「自分はどうしてこれが嫌いなのか? どうしてオレはこれを嫌っていいのか?」を追求するわけである。そして、こねるのだ、理屈を。たとえそれがヘ理屈でも、理屈は理屈だとこね続けるのだ。
そして、これが「なぜワープ日記はこんなに文章が膨大なのか?」に対する答なのである。
おいおい、いいのか、そんなオチに収束させて!?>オレ。
なお、この文中における「オタク」は尊称である。
以上、思い入れあるものに理屈を求める者、それは……オタク、というお話でした。
981120a[ daily life / 日常生活(金) ]
買ったまま観賞してなかったヒロスエのビデオを観賞する。
うむ、大変よろしい。
って、朝っぱらから何してるんだよ、仕事にいけよ>オレ。
それにしても、早稲田の一次を通過しただのスポーツ新聞に載っていたが、いいのか早稲田そういう情報を漏洩しても? 立て看板が増えるだけじゃ?
しかし、GTに言わせると「ヒロスエは恋人発覚した時点で終わったね。起死回生の一発は早稲田に合格することだけだな」だそうで、先日も「お前もいつまでもヒロスエじゃないだろ? 大人になれよ」とか鼻で笑われてしまったのだが、そう言ってヒロスエに見切りをつけてすかさず田中“なっちゃん”麗奈に乗り換えるあたりが「典型的なネットのアイドルオタクの行動パターン」みたいだから、もうちょっとヒネった人を追っかけなさい>GT。
って、SPEEDとMAXとヒロスエのCDを買うオレに言われたくないよな。
「吉野ヶ里で銅鐸発掘されたら、ますますわからなくなった」
朝刊をみると「吉野ヶ里で銅鐸発掘」と朝日新聞の一面に。
すげいなぁ、掘ればなんでも出るなぁ吉野狩ヶ里。この調子で掘れば、卑弥呼の金印とか、天皇騎馬民族説の証拠とか、シルクロードを渡って密かに日本に持ち込まれていた「失われたアーク」とか、キリストの聖杯とか、なんでも出てきそうだなぁ。
「九州にも銅鐸があった」ということになって、銅鐸文化vs銅矛文化という図式がゆらぐらしいが、基礎知識がうつろなオレは「横帯文銅鐸が九州で初めて出土した」という記事をみても「横帯文銅鐸としては始めてだが、他の銅鐸は出土したことがある」のか「とにかく銅鐸が出たのが初めて」なのか、よくわからない。
ただ、まぁ仮に銅鐸が出たのが最初だとしても「この型の鋳型はこれまで佐賀県鳥栖市や福岡市で見つかっていたが、銅鐸そのものは見つかっていなかった。」 と書いてあるから、「こんなところから銅鐸が出るとは夢にも思ってなかった」わけじゃないみたいだな。(この記事読んでも「この型じゃない鋳型は見つかっていたのか」もわからないが)
この発掘によって「鋳型はあるから九州にも銅鐸文化があったのだ」「じゃー銅鐸ほりだしてみろよー、ないじゃん銅鐸が。本当に銅鐸文化があったなら、一個ぐらい出てきてもいいんじゃないのー?」という論争に関しては「ほら、やっぱりあったじゃん」と言えるので話が進むようになるんじゃないかな。
うーん、邪馬台国と大和朝廷がの九州説と近畿説、どうなるんだろうな?
また、この発掘によって、なんというか「縄文人は狩猟生活をしていましたが弥生人は農耕をしていました」とか「縄文人は洞窟に住んでいましたが弥生人は立派な集落を作っていました」とかいう単純なわけかたが、縄文人は稲栽培してたりでかい建物たててたりしたことが発掘であきらかになるとひっくり返ったみたいに、「近畿は銅鐸文化でしたが九州は銅矛文化でした」とかいう、単純な考え方も、やっぱり単純すぎたんだね。
しかし「古代人は我々が想像していた以上に進んだ文化・文明を持っていたのですね」とか「思ったよりも早くこの文化・文明は広まっていたのですね」ってのはいいとしても、そうなると「じゃぁ文化・文明ってどこからどうやって発生したの?」とか「じゃぁいつ広まったの?」とかって疑問がますます闇の中になってしまうよなぁ。闇の中っていうか、ますます史料がとぼしい過去の中に。
だからといって、文明の起源を知りたいからと、起源でもなんでもない部分を勝手に起源として「これ以前には文明はなかった。以上」ってやっちゃ、何の意味もないしねぇ。
歴史のロマンは広がるんだけども、わからないことが増えてしまったなぁ。まぁ「無知の知」じゃないけど「わからないことをわかってると思いこんでいたより、ずっとまし」かもだが。
最後にひとつ現実的な意見を言うと「吉野ヶ里からおもしろい発掘品がどんどん出て、観光名所としての価値があがることは、佐賀県にとっても近所の福岡県にとっても九州にとってもいいことだから、どんどん出ろ! 金印も出ろ!」だな。わはは。
「裏金積んでるばあいか、富士重工!」
うーむ、自衛隊がらみで富士重工いろいろ叩かれてるなぁ。こんなところで叩かれてて、レガシー以外売り物がないスバルは大丈夫なのかー? 売れる自動車つくれよー。日産の下請けになりさがるなよー。
って、「戦車つくって裏金積んでる暇があったら、自動車つくれよ」って、スバルが余業で戦車が本業なんだろうから、逆に「あほぉ、裏金積んでるからレガシー作る余力があるんじゃ! 文句あるなら戦車こうてみー!」だよなぁ。いや、実際どうか知らないで書いているが。
けど、レガシーは日本カーオブザイヤーぐらい取れるだろうし、インプレッサでWRC制覇したりできるかもだが、日本の戦車が世界水準で戦えるとは思えないからなぁ。って輸出するわけいかないしな。専守防衛。
いや、うちのオヤジは30年前から「スバル一筋」できたから、ここらでスバルのイメージがダウンするとオレは悲しいのね。それだけ。
しかし、スバルのボクサーエンジン、ぶろろろろー! ってうるさいんだよねぇ。かといって静かになってしまったスバルは、スバルっぽくないし(贅沢なんだよお前は>オレ)。
「ローカルCMがあるけん博多たいッ!」
山笠なあるけん、博多たい!……いや、そうじゃなくて。
いわさきのこのごろ981118あたりの福岡ローカルCMついてだが、
曰く、
わからないなりに、考えると、思いつくのは「♪たまにーはケンカーにまーけてこいー『ごめーん』」の「博多にわかせんぺい」ではないかな? 冒頭は「こらケンジ! はよーことわりばゆーてきんしゃい!」か。
あと、あまり印象深くはないが「銘菓『博多の女』」の♪はかたーのひとぉよぉ、もローカルはローカルだろうなぁ。最近とみに目に付く(耳に付く)のは、『ドォーモ』関係者の出演する「やまや」の辛子明太子のCMだろうか。って歌があるわけじゃないが。「めしや、しごとや、やまや!」。農協ローンだかはまぁいいとして、CMで水商売の女を演じる村中ともみッ!、それ似合いすぎるから、やめろ!
さらに「博多」でも「福岡」でもないが、大原の松露饅頭のCMとか、古いバージョンの「佐賀錦」のCMで、アカレンジャーの俳優さんが故郷の母親に「おふくろ、佐賀錦おくってくれよ」って電話かけて「直也!? 直也ね、なんばしよるとよ、いやなっときだけ」と母親が反応するCMがオレ的には印象深い。実際に何と言っていたのか記憶が定かではないが「嫌な時だけって、いやなのか!?」と思っていたのは秘密である。
鮎川誠も、博多CMでは、けっこうあやういスタンスだな。大昔の「博多もんはーおーどーもん。青竹割ってへこいかく、ばってんラーメン」のCMは「誰やこのオッサン?」「なんやそのラーメンの名前!?」というわけで、衝撃はあったが意味がよくわからなかったしなぁ。最近は「九州のコンビニはポプラやね」とか何の説明もなく断言してくれたりして脱力感が増すのだが。(しかもポプラ本社は広島だしー)。
ばってん荒川については、最近あんまりみないし。みるとすごい老けっぷりで怖いからよくわからないや。特警ウィンスペクターにゲストで出たりした過去もあったんだけどね。栗之助はあまり高く評価してないのさ、オイラ。
あとは、深夜にやりまくっている、正式名称はなんというグループかわすれた宝飾関係の「あのCM」であるが、福岡市内に住んでいると「銀座ジュエリーマキ 松屋レディース6階」ということになるわけである。(あれ? 4階だっけ? 人生の中で100万回ぐらい聞いてるはずなのにおぼえてないなぁ……まぁ宝石なんか買わないからどーでもいいけど)。
というわけで、引用したわりには何を言ってるのかわからなくなってしまったのは秘密なのだが、結論は「やはりローカルCMは身体に染みつくなぁ」ということである。愛眼ビルのCMに関しては解体セールを1年以上もやっておいて、なかったことにしかけたあたりとか、ゴジラと連動CMしたりするあたりに、世界観のほころびが見えたりして、いやだったり逆にたのしかったりするのであるが。
えーと、その、つまり、山笠なーあるけん博多たいッ!
(余談であるが、私は年少の頃、この台詞を「『山笠』はもうあるから、お土産でもってくるなら『博多』を持ってきてください」という意味であると思っていた。つまり、『山笠』と『博多』の二つの商品を持つメーカーが後発商品の『博多』をプッシュするCMだと思っていたのだが、これは余談である。さらに余談であるが、これを現代風に言い換えれば「『山笠なんて、だっせーよなぁ! これからは『博多』だよなぁ」とガキが言って湯川専務が愕然とするようなCMだと思っていた、ということになるのはさらなる余談なのだった。)
ネットの議論は「不吉」である。
ネットの議論は嫌われている。ネットの議論が嫌われるのは、そもそも、日本人が議論を見るのが嫌いだからだ。なぜならば、我々日本人が井沢元彦の言う「怨霊信仰」の民だからだ。「怨霊信仰の民」は、戦って白黒つけることを恐れる。仮に戦ってある論が別の論を論破したとしても「戦って勝った」というだけですでにその「論」は忌み嫌われるのである。なぜなら、負けた論が祟るからである。なぜ「負けた『論』が祟る」かといえば、日本人が同時に「言霊信仰」の民だからだ。言霊を信じる民は、ある論者の論を、その論者そのものと見なす。よって、ある論が論破されることはすなわち論者が死ぬことと同値である。戦い死んだ人間は祟る。よって、論破された論も祟るのである。怨霊信仰の民は祟りを恐れる。なぜなら、祟りを恐れる者を怨霊信仰の民と呼ぶからだ。恐れるから嫌うのである。
なぜ「議論するのが嫌い」ではなく「議論を『見る』のが嫌い」なのかといえば、言霊の世界では「ある」と言えばそれは存在し「ない」といえばそれは存在せず、議論を見てしまうことが、目撃者の世界の中に議論を存在させてしまうことになるからだ。自分の世界の中に議論が存在すれば、すなわちいずれ自分が議論に巻き込まれることを意味する。逆に言えば、議論を目撃さえしなければ、議論は存在しないのである。そして自分が議論に巻き込まれることも、結果として死ぬことも祟られることもない。このように議論は目撃するだけで自分をいずれ議論に巻き込む「不吉」な存在なのである。
そのようなわけで我々(日本人)にとって「議論」は「無意味」や「無価値」である以前に「不吉」で「穢れ(けがれ)」なのである。
ネットの議論や、議論そのものについて考えるときに、我々日本人が、そもそも議論というものを不吉なものとしてとらえていることを忘れてはいけない。
と、まぁ、偉そうな(読む人によってばオカルトがかってバカみたいな)文を書いてみた。脱線とオチがない文章書くのはなかなか苦痛だな。
井沢元彦も「言霊(ことだま)」とか「逆説の日本史」とかはすごく面白いんだけども、最近はSAPIO誌上で、ぶいぶい言わせすぎてるせいか、「小林よしのり」と同じぐらい株が下がってるらしいからなぁ。最近は小説もハードカバーでどんどん出すしなぁ。上中下三巻なやつとか。出すのはいいけど、井沢元彦の小説、あんまり読んでも面白くないからなぁ。やっぱ「賢い」ってタイプの頭してる人は小説よりも評論書いてる方がいいと思うな。
まぁ、井沢元彦の株がさがっていても、「言霊(ことだま)」は、なかなか面白い本なので「非常事態を想定して喋ると、その言葉が非常事態を呼んでしまうような気がする日本人は、非常事態を想定した議論をすることができない」っていうような話に興味ある人は読むと吉。オカルトやトンデモ科学の本ではないので念のため。
最近「ネットの議論はだめだ」をよく見かけると思っていた話は昨日も書いたのだが(そこの人、デジャブじゃないっす。また書いてるんです)、いくつかあるらしい震源地のひとつは、みのうら風虎日記の「ちぇろ子さん関連」「SFファン廃業宣言」とかみのうら掲示板なのかもしれない。
「SFファンとは」とか「オレのSF基準は」とか「オレのSF基準はとか言い出すヤツはダメだ」とか、なんか混ざって叫びたいような話なのかもしれない。(いや、ちゃんと読んでないから、よーわからん)
けど、時間がないので、クチバシとか足とかは突っ込まないのだった。まぁ、縁があったら、また巻き込まれる話だろうし。(をいをい)。
というわけで「ネットの議論はだめだ」をよく見ると思っていたら、もうひとつ震源地を発見したよ、という話。
福岡、一時雨。寒い。
昼御飯は、オムライス。うむ、このお子様な感じが心なごむな。
そうそう「WORDのオートコレクトはUndoで解除すりゃいいでは?」と言われて、その通りだったので、昨日の記事に追記。
日が落ちると寒さがたまらない。
あまりに寒いので、仕事場もガスストーブを装備。
おぉ、あったかい! あったかすぎる!
もぉ、ストーブの前にしゃがんで手の平をかざして、一歩も動けない状況。
「そんなに貼り付くほどいいすか?」と同室の人々の視線は冷たい。うーむ、どうもやっぱりオレは平均よりも「寒がり」らしいな。
いいぜーストーブ。暖かいぜー。手の平から遠赤外線吸収するぜー。ぽかぽかだぜー。幸せだぜー。しあわせすぎて、ボーっとしてきたぜ。ぼーっと……ん? ちょっとまて、これは、ひょっとして「酸欠」では?
いかぁあああん! 酸素ぢうやう!
ううううう、窓あけたら、ものすごく寒い。悲しい。
「ネットで議論してないで、己の頭上の蠅を追え、か」
なんだか最近「ネットでの議論は虚しい」「ネットでの議論は実りがない」「ネットでは議論できない」というような話をやたらに目にするような気がするのだが、何やらそういう特集なりなんなりがあったのだろうか?
今月の「日経ゼロワン」にも、そのような記事が数頁掲載されていたし、Web上では、ちはる多次元尺度日記981116-17、ちはる掲示板、あたりを発端にしていくつかの日記で展開したようだ。
と、いう書き出しだと「しかし、そんなことはない」とでも続けて反論でもしそうに読めたかもしれないが、そうではない。素直な感覚としては「ネットでの議論は実りが少なく」「ネットでの議論は議論になってない」と感じるのが事実だ。まぁ「虚しい」とまで言い切ると、ちょっと言い過ぎな気がしないでもないが。
(色々読んでいるらしい)……うーん、そのとおりすぎるので何とも言えない気持ちだな。
「ネットで議論」に関しては我ながら反省すべき点が多いので、ちはる氏の「昔、私の師から言われた。『情けないケンカをするな。自分の仕事をしなさい』」というのが耳に痛いわけである。
「己の頭上の蠅を追え」ということにもなるか。
晩御飯はモスバーガー。
モスバーガーでお腹いっぱい食べるとけっこうな値段になるのだが、なんというか「妙な贅沢」という意味で心躍るものがある。ベクトル的には「駄菓子屋で豪遊」って感じか?
日記猿人年表を修正、ver.3に。といっても960807と981112の二カ所。
「日記猿人とわたくし」
「アンテナ飼ってる人は何を考えてアンテナを飼ってるのだ?」という話から派生して「日記猿人をどう思ってるか」という話が、アンテナ飼ってる人々の日記に書いてあったんだけど、なんというか「みんな、ほんとに、日記猿人が嫌いなんだねぇ」と、ちょっと驚いてしまった。オレはまた、みんな「日記猿人」そのものや「日記系リンクス一般」にもっと興味を持っているのかと思っていたから。
(ここに、関係者の日記をリンクする予定だけど、めんどうなのであとまわし)ちなみにオレに関してはワープ日記981116a参照。
それも、なんというか「ばうわう嫌いだから日記猿人も嫌い」という実も蓋もない嫌いっぷりというか。しかも「ばうわうが作った」という以外の面では「特に、興味ないしー」という具合で。
いや、まぁ、実も蓋もない嫌い方しても別にいいんだけど、なんというか聞かれて「嫌いだよ。だって、ばうわうが作ったんじゃん」とか即答されてしまうと、なんだか「いいのかそれで!」とか思ってしまうのだが。
(もちろん、各人それぞれ微妙に立場や捉え方が違うのはわかってるんだけど、そういう部分をくくった「大筋としての態度」が思った以上に頑なだなぁ、と思ったってことです)
まぁ、即答せずにいろいろ理屈をこねた結論が「実は嫌いです。理由はつきつめると、ばうわうさんが嫌いだからです」になるんだったら、理屈こねるだけエネルギーの無駄かもしれんが。
あと、「アンテナって、ある意味で分散して姿を変えた津田日記リンクスなんじゃ?」って、薄々感じていたんだけど、なんか、本当にそうなのかもしれない、という気がしてきた。
って、たまたま、元日記リンクス関係者密度の高いアンテナばっかり見てるから、そう見えるのかも。いかんいかん。
「『630事件』とは、三ツ矢オフピーク日記が命名者か!」
先日、日記猿人年表を作っていて、ふと「ところで『世に言う630事件』ってよく言うけど、最初に言い出したの誰だ?」と思った。
しばらく考えてもわからないので周囲に聞いてみると「三ツ矢オフピーク日記が最初に言い出したのでは?」とのこと。あ、そうか。
おそらく7月1日に書かれたであろう「7月1日(月)〜3日(水)」の日記のほぼ冒頭部分に「今日は、「Web日記界」の一部の人たちにとって 重大な事件である「630事件」について書きます。 」とある。
しかし、三ツ矢氏が他の誰かの日記を見て「630事件」と使いだした可能性もある。これを調べるためには、三ツ矢氏が読んだであろう当時の日記で三ツ矢氏よりも先に「630事件」という用語を使った人がいないことを確認しなくてはならない。
め、めんどうくせー……
あまりに面倒くさかったので、三ツ矢氏に直接メールで質問してみました「あなたが『630事件』って言葉の命名者ですか?」と。
お返事に曰く「たぶんそうです」だそうです。
あっけなく解決。よっぽど強力な「実は先に命名していた人がいた!」とかいう史料でも出てこない限り、オレはこれで納得したよ。
【結論】『630事件』という用語は、三ツ矢オフピーク日記が使い始めた用語である。
え? 「そんなこと最初から知ってた」? うーん、なら教えてくれなくちゃだわ。え?「そんなことどーでもいい」って? がーそ。
そうだ、あと「630事件」という言い方をする心理というのをちょっと考えてみた。
Q1:630事件知ってますか?
知らない人がいても勿論いいんだけど、まぁ、とりあえず630事件とは何かというのは知っている人だとして続けますと、
Q2:630事件は何月何日に発生したでしょうか?
これも経緯を知っていれば「6月30日」なのはわかるでしょう。では、次
Q3:630事件は、何年の出来事でしょうか?
即答できました? 実は、1996年、平成8年の出来事なのです。もぉ2年半前の出来事なのですねぇ。(もちろんこの文の執筆時からみて2年半前ね。読んでるアナタがこの文章をいつ読んでるかは私は知らない)
何が言いたいかというと「630事件」という言い方をしていると、起こった日付はおぼえていてもそれが何年の出来事なのか、おぼえていられないってこと。毎年その日がくると昔ある事件があったことは思い出すのだけれども、通常その事件が、いま現在からどれぐらい離れた過去の出来事なのかを思い出さない、という効果があるというわけ。言い換えれば、その事件から現在までどれぐらいの時間が流れたのか把握できてない、ということ。
そういうわけでやはり、どれぐらいの時間が流れていて、何がどれぐらい変わったのか、また何がどれぐらい変わらなかったのか、ということを見ないといけないなと思った。
そのためには、やはり日付には「年」が重要と。(ワープ日記981117a参照)
そのためには、今日から「630事件(ろくさんまるじけん)」ではなく「960630事件(きゅうろくぜろろくさんまるじけん)」と、いや、いっそ「19960630事件(いちきゅうきゅうろくぜろろくさんまるじけん)」と呼ぼうと!
なげーよ。長すぎ。
(しかも「ぜろ」と「まる」をなぜ混在させる?>オレ)
そういうわけで、「長すぎて挫折」というオチ話になってしまったのだが、「960630事件」と書いて「きゅーろく、ろくさんまる事件」と呼ぶぐらいは、まぁ悪くない長さだとは思うが。だが、別に本気で「これからは『960630事件』と呼ぼう!」と提唱しているわけでもないので、あまり本気にしない方が吉。
しかし、なんでそこまで630事件にこだわるかね?>オレ。ひょっとしてトラウマ君?
981118b[ Is Nikki-Engine confused by BOWWOW alone? / 日記猿人は、ばうわう氏一人にふりまわされているか? ]
(タイトルの英語が怪しい。怪しいのは仕様だ、と逃げておこう)
(981119に一部日本語を改訂した。意味が取りづらい部分があったからである。変更箇所は明示的に示さないが、コメントとして収納したのでご不審の際にはソースを見ていただきたい))
ふるふる日記981117に曰く「ばうわうさんもあいかわらずで、そのばうわうさん一人にふりまわされている日記猿人も大変だな。と思った。」
私はこれを読んで「まぁ、そのとおりかもしれないけども『一人にふりまわされている』って言うのはなんだなぁ」と思った。
そこからリンクされている、日記猿人管理者遠藤氏の、ぷろくら日記981109では明示的に「<怒>」と怒りタグに囲まれた部分があって、空更新を繰り返す石久ひでお氏に対する怒りが書いてある。
私はこれを読んで「管理者って、こうやって怒っている時でも冷静に(冷静なフリをして、あるいは、冷静な時と同じように)作業というか「処理」をしないといけないのだから、大変だな」と思った。
そして「こういう時のためにも、やはり緊急時のマニュアルというのは平時に作成して公開しておくべきだな」と思った。(管理者全般に関する話ね。日記猿人の緊急時のマニュアルの有無の話ではなく)。緊急事態が発生して、怒りに我を忘れそうになったり、冷静な判断ができないと自分で思っているにもかかわらず、その時になってもなお「慈悲あふれる管理者がきっと最善の方法を考えてくれる」という他の利用者の期待を背負わされ続けるのは、ものすごく大変だろう。それに「冷静な時に考えても当然思いつくはずな妥当な処置(ペナルティ)」を、仮にその場で決定すれば、後から「怒りにまかせて(あるいは、よく考えもせず)決定したに違いない」と邪推されることにもなるし。
と、ぷろくら日記981117に、先のふるふる日記に対する返答が。その中で曰く、「ただ日記猿人の生い立ちが故にいまだに猿人を敵対視している人がいるんだったらそれは残念だ。Bastardは一生bastardと言う事か。創設者の一人が残してくれたレガシーだな、これは。 」
うむ、確かに「産まれでその人を判断するのか? その人が何をしたかでなくて?」と問われているとすれば「日記猿人の生い立ちが生い立ちだけに、どうも好きになれない」ってのは「偏見」ってことになるな。
ただ、まぁ、なんだろうか、ばうわう氏が日記猿人を設立した目的の一つは(ばうわう氏の意図を邪推すれば、の方が正確か)「日記リンクスは間違っていた(から崩壊した)が、自分の運営する日記猿人は間違っていない(から崩壊しない)事を証明すること」だったのだろうから、「日記猿人に登録して日記猿人を発展させるのには関与したくない」と思うのも当然だと思う。
本当は「日記猿人が発展することが、日記リンクスが間違っていたことの証明になる」わけではないのだが、設立者にして管理者でもあった、ばうわう氏が、そう主張しかねない状況にあったのだから、日記猿人というのは「bastardだったことが悪かった」のではなくて「親が悪かった」のだと思っている。と、かくと「ばうわう氏が悪い」ということになってしまうな。裏を返せば「親が悪いと決めつける世間の目(日記リンクス登録者の考え方)が悪かった」ということか。まぁ、ばうわう氏と日記リンクス登録者(の一部)のどちらかが悪い、というよりはむしろ「こんな社会が悪いのよ」ということなのかもしれない。
また、ばうわう氏が「日記猿人の設立意図は、日記リンクスが間違っていたことを証明するためである」と本当に考えていたかどうかだが、「氏はそう考えていた」としてかまわないだろう。氏が日記猿人から9709に追放されるときに書いた「お知らせ、ばうわう」を読めば、そうは明記されてなかったが、氏がそう思っていたと読めるからだ。ただ、あの文書も「いままさに、日記猿人から追放されつつある状況」で書かれているものだから、日記リンクスに対しても日記猿人に対してもニュートラルな感情で書かれたものではないとも考えられる。
で、「現状の日記猿人の運営体制」や「現状の日記猿人の状況・雰囲気」が、ばうわう氏が設立したことによる「何か悪い資質」を受け継いでいるかというと、おそらく何も受け継いでないと思う。だから、現状の日記猿人を語るときに「ばうわう氏が設立したから」という視点を持ち出すと、それは「単なる偏見」にすぎない。(「ばうわう氏が設立したことによる「いい資質」も受け継がれてない」とは言わない。)
ワープ日記981116aの中で、「日記猿人の現状に関しては、あまり肯定的に捉えてない。しかし、しかたない、と思っている。 」と書いたのは、ばうわう氏とは無関係な、日記猿人の現状に関する感想である。たとえば「登録数が膨大になって、読もうにも何が何やらさっぱりわからぬ」とか「一行コメントの派手派手しい文章が好きになれない」とか「自分の趣味にあう日記が少ない(気がする)」とか。で、これらの「感想」は「単なる趣味の問題」もあれば、「日記猿人の仕様や運営方針によって醸し出されている問題」もあると思っている。もちろん「仮に日記リンクスが生き続けていたら遭遇しただろう問題」も含まれる。
そのような問題には、「空更新」や「一行コメント」や「登録日記間のトラブル」や「不正行為」などがあるが、それらに対する「管理者の取り扱い方」自体も問題のひとつになりかねない。現状で言えば「管理者の対応の仕方が『ふりまわされている』と見える」という問題だ。もちろん遠藤さんを含めて管理者グループが「『ふりまわされている』はひどいぞ>ぽにしくん。ふりまわされるほどだらしないとは思わない」と思うのは当然で、私も「だらしない」とは思わない。しかし「相手をするだけで、もはやふりまわされている」と思う人もいるだろう。
しかし、私は、現状の管理者グループの対応は「ふりまわされている」のではなくて「利用者に対して寛容でかつ丁寧」なのだと理解している。世間では、もうちょっとドライで機械的な管理者の方を「スマートだ」と評価するのだろうが、私はトラブルがあると逐一猶予込みで対処する現状のやり方は、ただ単にドライで機械的な管理よりもずっと好みだ。「ふりまわされている」と感じる人はこの「寛容さ、丁寧さ」をもっと評価すべきだ。
ただ、まぁ、トラブルが発生する度に、管理者が懇切丁寧に対処していると、大変だろうな、と思うわけであるが。
<脱線>
毎回懇切丁寧に対応するのを省略するためには、FAQやマニュアル、ルールの類を整備しなくてはならなくて、しかし厳密なルールを作ろうとしてもかならず抜け道を発見する輩が出るので、ルール整備にそそぐエネルギーが実現不能なほど膨大であると考えれば、結局の所、毎回対応するしかないわけであるが。
先に書いた「ただ単にドライで機械的な管理」というのは、厳密ではない単純なルールしか持たず、しかもそれを機械的に運用する管理のことである。(極端な例などは「管理者が気にくわない場合は削除。説明は無し」などである)。ドライで機械的な管理であっても、ルールやマニュアルが充分に例外や温情措置について配慮されたものであれば「ただ単に」とは呼ばない。
しかし、ルール整備の類の行為を行わないことによって、参加者が「最後は慈悲深くて偉大な管理者様が解決してくれる」というような発想をして、管理者の負担が増える悪循環が発生しているのではないか、と思う。ただ、なるだけ手間をかけずに欲望を満たそうと思っている2000人もの人間が集まっていて、合議制でルールを制定してたりしてまともに動くとは思えない。よってコスト的な発想をすれば、この考え方は間違っている。
</脱線>
しかし、やはり「ばうわうさん一人に」と言いたくなるのは、トラブルの半分程度を、創立者で元管理者であるところの、ばうわう氏が引き起こしているからである。(半分以上、と書いたが定量的に測定したわけではない)。日記猿人のシステム自体の問題であるよりむしろ、これはやはり日記猿人の出自に関係しているとしか考えられないので、これこそ「創設者の一人が残してくれたレガシー(遺産)」以外の何物でもない。私はこれを「負のレガシー」と思うが(口の悪い人は「先天性バグ」などと呼ぶらしいが)、古来より英雄(ヒーロー)には身体的欠陥や出自その他に一般人にはない負の部分があり、それゆれに英雄なのだ、ということになっているので、この点では日記猿人は恵まれているのではないか、とすら思う。
結論としては「日記猿人の出自だけにこだわるのは偏見であり、日記猿人の現状について考える時は、それにこだわるべきではない」ということである。そして、私自身は、出自の問題と現状の問題はわけて考えているつもりである。にもかかわらず、出自の問題ばかりとりあげるのは、出自の問題に興味があるからである。現状の問題については単に語ってないのである。(現状の問題に興味が無いわけではないが、積極的に語るべきほどのことを思いつかないからである。って先の<脱線>部分は、現状に対する何かを語っているな。しまった)。
981118a[ daily life / 日常生活(水) ]
福岡、晴れ。すごく寒い。
一日、パソコンに向かって作業。これだけ使っていれば、MS-WORDともうちょっと心が通じても良さそうなものなのだが。
マイナス記号をページの端から端まで並べてリターン押すと、自動で横罫線に変身する機能は、ビックリして感激した。わかってるじゃーん、って感じ。
ただ、この「わかってるじゃーん」が曲者で、MS-WORDは、どうも「よかれと思って勝手にユーザーの入力をいぢくる」ってのが多い気がする。
どっかにあるのかな「おい、今やった自動変換、解除して入力した通りに戻せよボタン」みたいなのが。
(981119追記:「オートコレクトはUndoで解除すればいいでは?」と言われる。おぉ! 本当だ! いや「まず入力されて、次にワードがそれを変換している」という二段構えだったのね。てっきり「入力をうけとったワードが変換してから出力」みたいな状況だと思いこんでいたので、Undoすると入力全体がキャンセルになるのだとばかり思いこんでいた。いかんいかん)
とにかく「勝手にスペルチェック」と「勝手に英文先頭大文字」は、解除しても解除してもすぐONになっていまう気すらするけども、きっと無意識のうちに(徹夜中に小人さんが現れて)ONにしてしまうんだろうなぁ。
まぁ、どのみち一太郎に乗り換えるつもりは毛頭ないので、ワープロとしてはMS-WORDと共に歩むしかないんだろうねぇ。
近所のうまい定食屋でご飯を食べる。
うまいのー。やっぱ、飯のつけあわせには、ほうれん草のおひたし、とか、切り干し大根の煮付けとか、ゴマ和えとか、そういうもの「も」食べたいよな。(そういうもの「が」とまでは断定しないが)。ま、とにかく、じじくさい話で。ほえほえ。
あまりに寒いので、銭湯にいってみた。
でかい湯船にゆうゆうとつかるのは気持ちがよいものだ。
しかし、350円とれれることを考えると、そうそう通うわけにもいかないな。
まぁ「でかい湯船にゆうゆうとつかる」という贅沢を考えると、350円ぐらい取られて当然という気がするが。
そうだ、本日は「絵人間」の人がいらっしゃった。「絵人間」とは読んで字のごとく、背中に絵をしょった方だ。
背中に絵をしょうぐらいにその道に邁進しているはずの人が、どうして銭湯通いなんかをするのか、ってのがオレ的には納得できないのだが。
まぁ、「絵人間」の人が銭湯通いするのは謎ではあっても、それはそれで全然かまわないのだが、ビオレを専用スポンジの穴にチューっと注入して、念入りに泡立てて全身を洗っているのを見ると「なんだかなー」という気がするな。納得できない。
「絵人間なら根性みせて、タワシで洗わんかい、タワシで!」とか、口にはしないけど、心の中で思ったりして。
「日記猿人は、ばうわう氏一人に、ふりまわされてるか?」は、別項に移動。
981117a[ daily life / 日常生活(火) ]
福岡、晴れているも寒い。空の高さから考えるに「冬型の気圧配置」というやつかもしれないな、と思う。
突然、m.c.A.T.のCDが欲しくなったのだが、いきつけのCD屋には置いてなかった。
「ARB」
「邦楽・え」の欄を探していると、復活ARBのアルバムが置いてある。ううう、やっぱ買うべきかしら? と、いうのも復活シングル「TOKYO OUTSIDER」をカラオケで歌いたいのにDAMには入ってなくて、アルバム曲の「INFINITY」は入るみたいなので、こっちを練習すべきかもだから。
ARBに関しては、活動休止前の「one and only dreams」や「Rock Over Japan」の収録曲あたりを一番よく聴いていたので「プライド(♪今日も激しくながれてゆくあの河のように)」とか「灰色の水曜日」とか「Rock Over Japan」とか「Say No!」とかが歌いたいのだが、ARBの代表曲じゃないので(というか、どちらかというと邪道だと思われてるんだろうな)入るみこみは薄いなぁ。
「After '45」と「魂こがして」歌えて、あと何が不満だ? という気もするが。
SESの「めぐりあう世界」は、えらくまたミーシャな歌だと思っていたら、作ってる人がミーシャの曲の人らしいな。なるほろ。
ホカ弁カレーに、思い立って付属の「辛みスパイス」を全部入れてみた。おお、なんか違う味になったぞ。辛みの向こうからやってくる、この奥深い味は……って、なんか本来、感じるべきじゃない香辛料の「香辛」部分以外の部分の味なんじゃないかなー、これ?
「流星群なのか焚き火なのか」
む、獅子座流星群の時期なのか!? すっかり忘れやがっていたぞ!
これだけ寒いと、大気が澄んでいて、よく見えるかも知れぬ!
よし、観るぞ! 寝ころんで! 双眼鏡で!
よし、まわりに明かりがない広々とした暗いところに寝そべって……、う、ううう、すげー寒そう。考えただけで鼻水がでそう。
挫折しなかったら、観るけど。寒むそうだなぁ、あ、そうだ七輪で火を起こして暖を取ろう! って、なんか、そんなことしたら単なる「焚き火」になってしまうなぁ。シシャモ焼いて、こー、焼酎のお湯割りとか飲んだりして。
え、ええのぉ。これ。そそる。
三ヶ月前のワープ日記に曰く、
うーむむむ。
「物は言い様(で角が立つ)」
うぐぐぐ。
Web日記の日付には、年、もいれよう。
Web日記をぐるぐるしてて思ったのだが、日付に対して「2000年問題」以前に、そもそも「年」の記述のないWeb日記がけっこうあることに気付いた。(ちゃんと数えてないんだけど)
書いたときには自明でも、年書いてないと、すぐ何年前の出来事なのかわからなくなるから、やっぱり書いた方がいいと思うな。
自分がWeb日記を1年以上書き続けるとか思いもしないで始めるからなのかな。いや、思い立ったら吉日的に始めてしまうのがWeb日記の醍醐味だと思うので、いきなり始めてしまうこと自体はいいことだと思うのだが。
作成年月日をいれておくに越したことはないのは、何もWeb日記だけに限らないけども。
Web日記で日付が全然ないものもあるな。(この文、数分後に追記した。ないと文意がねじれるから)
Web日記は、蓄積してあとで再利用するための「ストック」という面と、日々読み捨てられて消えていく「フロー」という面があるからして、フローとしてとらえたときに「後で読み返してもわかるように」書くのは、あまり意味がないとも言えるな。
それと、日付いれちゃうと言質とられたりする可能性あるから、あえて入れないって手もあるよな。(SSIとか入れてLast ModifiedをNot Foundにすれば「いつの時点の発言か」が他人からはわからなくなるし)
それに、「言質とられないために日付隠す」みたいな邪推をしなくても、エッセイだととらえると、露骨に日付を入れて特定の日時に固定されたくない、って発想も有り得るかもしれない。エッセイに限らず、なんというか、詩とか、文学方向に近づくとね。
けど、まぁ、「詩」とかまでいっちゃうと、何も言えないが、エッセイぐらいだと「人間の思考は、なかなか時代から切り離したものにならない」ってのと「日付入れただけで、一般性が薄れる文章だとしたら、その文章の持ってる一般性が最初からまやかしだったのだ」ってのからして、日付を入れて「時代性」とか「一般性」とかに自覚的になるべきだと思う。
「時代性」とか「一般性」が実際にどういうもんなのか、っていうと、あんまり考えてないんだけども。
というわけで、時代性とか一般性は、まぁ、どうでもいいとして、日付かくときに「年はいいかー?」と思いがちだけど、一年たつのは早いもんだし、何より自分で思っている程自分の記憶力は当てにならないもんで。ううう。涙。
てわけで「日付には年もいれておこうね」って話。
先の「Web日記の日付には、年、もいれよう」の話に関して「で、結局2000年問題は放置して西暦2桁で書くんかい?」と言われたのであるが、そのとーり。
「630」と言ったときに「1996年なのか、1997年なのか、1998年なのか?」と簡単に混乱するが、「981117」と言ったときに「1998年なのか、2098年なのか、1898年なのか?」と混乱することは、ぐっと少なく実用上問題がないと思ったからである。
とはいえ、2桁で書いている西暦を4桁で書くことが、「理由を述べて拒否するほど面倒くさいのか?」と言われると悩むな。
思いつく理由を述べるとすれば、西暦4桁+月2桁+日2桁=8桁、となって、これで8.3形式のファイル名をつけた場合「同じ日付のファイルが一つしか作れない」ことになって、それを避けたかったからである。
まぁ、いまどき8.3形式ファイル名でもあるまいが。
GTと飯。
オレがカキフライ定食を食べていると、その皿を凝視してGTが「しかし、どうしてカキフライ定食とかになると5個ぐらいしか載ってないのだろうか? いつも、いまひとつ物足らないのだが。しかし、7個とかになると食べ過ぎになるのかな?」とか言い出す。
「ウナ丼などを食べていると、いつも上に載っているウナギと下のご飯のバランスが悪い気がして、そういうことを考えてないのか? 誰か研究してないのか? とか思うのだが、周囲に話すと『そんなことを考えながらウナ丼食ってるのはお前だけだ』と言われるのだが、そうなに変かな?」とGTが言う。
「オレは今はカキフライは好きだがガキの頃は、気持ち悪いというか味がエグくて食べられなかった。今はそのエグみが『カキっぽくてうまい』と思うのだが、それでもエグみの味がする、とは思っている。思うに『カキフライ定食は常に5個ずつ載っている』というのが真実ならば、それは『3個だと物足らないが7個だと客が胸焼けを起こす』という統計的事実があって、それによって普通の人が普通の食事として食べる量としては5個ぐらいがちょうど良いということになったから、ではないか?」とオレ。
「オレはカキフライがエグいとは思わないが」とGT。
「うむ、エグいかどうかは、オレの主観的なものだから何とも言えない。なぜ5個しか載ってないかそんなに疑惑に思うのなら、いつか2皿注文して、一人で5個以上食べてみて、食後どんな気持ちがするか実験してみればいい。6個か7個で胸焼けがしたら、それはGTのカキフライ耐性が一般人の平均値から若干高いということだし、10個以上食べてもまったく胸焼けが起こらないとすればそれは、オレのこの『カキフライ5個以上では胸焼け論』が間違っているか、それともGTが、人並みはずれたカキフライ耐性があるかのどちらかだな」とオレ。
「実験……するのか?」とGT。
「そんなに疑惑をおぼえることがあったらオレならとりあえず実験してみるが。カキフライを腹一杯食ったらどうなるか、ぐらい大した実験でもあるまい」
「しかし、実験、するかね君は。さすが理系クン」とGT。
「じゃぁ、文系クンのお主は、アンケート調査でも文献調査でもフィールドワークでも、有効だと思う手段をいくらでもとればよろしい」とオレ。
「ウナ丼に関してはどうかね?」とGT。
「野田大元帥が『スペースオペラの書き方』の中だかで、たしか『弁当があまったので昼飯に幕の内弁当を二つ食べた。この店の弁当はオカズと飯のバランスが絶妙だと思っていたのだが、二つ食べると、飯はすんなんり入ったが、オカズのもう一人前を食べるのが苦痛であった。弁当一個としての飯とオカズの最適比率と、弁当二人前での最適比率が異なるのは発見だった』というような話をしていた。これは長編と短編でSF的オカズの比率をかえるべし、という教えの枕なのだが、話の通り取れば今回の話のひとつの例だな。おそらく弁当に限らず、牛丼、ウナ丼のご飯とオカズのバランスにも『どのサイズにでもあてはまる黄金比率』のようなものはなくて、サイズによって比率は微妙にかえなくてはいけないのだろう。そしてその最適比率曲線とGTの満足曲線が微妙にずれているのだと思う。こういう話は、料理の本や料理学校などでコツのような形で伝達されているとは思うが、理論だって教えられているかは知らない。家政科がある大学とかでは理論的に研究されているかもしれない」とオレ。
「SF的オカズと現実のオカズが一対一に語れるのか謎だが、とりあえず世間の最適比率とオレの満足比率が微妙にずれているのが原因だと言いたいわけだな?」とGT。
「そう。ずれが微妙かどうかは、何度かカキフライやウナ丼を腹一杯食べてみて、通常の比率以上にオカズを増やすと何が起こるか実験するとわかる」とオレ。
「ふーむ、わかったような口振りだが、そういうお前は『実験』したことあるのか?」とGT。
「ウチは野郎の3人兄弟だから、トンカツ、エビフライの類は、大皿に『3人でも食べきれない』ほど積み上げて、各人が心ゆくまで食べる、というシステムになっていた。だから、そういうものを心ゆくまで食べると、胸焼けすることを知っている。また、ローソンのオデンを見ていると『あぁ、この玉子とダイコンを腹一杯食べてみたい』と思ったりするのだが、先日、玉子5個とダイコン3個をいっぺんに食べたところ『ちょっと物足らないな、ぐらいがちょうどいい』ということが判明した。このように世間の食い物が『ちょっとものたらないなぁ』という比率になっているのは、それぐらいでちょうどいいからなのだ」とオレ。
「わざわざ実験してみるお前もお前だが、貴重な教訓を得たわけだな」とGT。
「うむ、昔から『腹八分目』というのは真実だったのだ」とオレ。
と、いうような会話の後、GTは目を輝かせていたのであるが彼が実験してみるかどうかはオレの知るところではない。オレの不用意な言葉が彼の胃と腸に過剰な負担をかけねばよいが、と願うのみである。あ、あと「彼の財布に」だ。
そして、食事を終わる頃にも薄々感じていたのだが、いまこうして文章にして読み返して思うのは、最初にGTが「『そんなことを考えながらウナ丼食ってるのはお前だけだ』と言われるのだが、そうなに変かな?」と質問したときに「おまえだけだよ」と突き放すのが、普通の会話かもしれないということである。
まぁ、オレとGTが飯くって、普通の会話してもしょうがないが。
かといって、こういうふうに日常会話の端々で微妙な変人度を互いに確認してみて、互いの人生に何か益があるのか、と考えれば謎だな。
日記猿人年表に追記。ver2へ。
981116b[ Nikki Engine,BOWOW and BBBW / 日記猿人・ばうわう氏・さよばう年表 ] ver.3.0
「更新履歴」
(981118追記:新規情報を追記した。最初に公開したのはver.1として別ファイルに保存したので、見比べる必要がある人は参照してください。【旧バージョン】)
いままで「ばうわう氏が日記猿人を追放された事件」(また「事件」かよ)の日付を把握してなかったので、確認のために、ちょっと書いておく。「お知らせ ばうわう」とそれへの批判である「さよばう」の更新時期も示す。
「資料・更新箇所」ver.3
「年表」ver.3
間違いやコメント、あるいは抜けている重大な事項などありましたら、FORMでよろしく。
981116a[ daily life / 日常生活(月) ]
近所の電器・電子デバイス屋のチラシに「SONYの電子ブックリーダー、広辞苑・逆引き広辞苑・和英英和辞書・マイペディアの電子ブック付きで、定価3万円を、1万円」というのがあって、買うべきか買わないべきかさんざん悩んで、悩みまくって「やっぱり欲しいから買おう!」と思って出かけていったら「あ? あれは、開店早々、売り切れましたけど」と「今頃あるわけじゃん?」という目で見られてしまったのだった。
そうかー、みんな欲しがるような商品だったのかー。なんか、オレと同じセンスの野郎が、近所にはわらわらしてるんだなぁ。って、けっこう嫌かも。
なんか、ふりあげた拳、じゃないけどわき上がった「ホシマリの心」がおさまらないので、ヒロスエのビデオ付きCDとか買ってしまう。ダメなヤツだ>オレ。
Web日記更新時刻取得エンジン系ページ(「アンテナ系」と呼ことにする)の意図、意義についてのお話が、いろいろなところで始まっているようだ。
しゃある日記981116から「さよなら、ばうわうさん」がリンクされているが、同時に【Web日記考 980918】、ワープ日記980630b[ 630 / 630事件二周年 ] も参照していただきたい。
というか、こっち先に読んで欲しいかも。「さよならばうわうさん」って文章は、あくまでも、「ばうわう氏が日記猿人から追放される時に書かれた文章」であって「630事件や812事件の時にかかれた文章」ではないから。ただ、まぁ文中に出てくる630事件、812事件がらみの文章が大筋で文脈が違うとは思ってないけど。
「かつて日記リンクスに参加していた人で日記猿人に参加してない人は、多かれ少なかれ諸星さんの意見と 同じものを胸に抱いていると思う。」の「諸星さんの意見」に関しては、話を進めるならばもう一度確認した方がいいとは思いますが、取り急ぎ時間もないので、とりあえず「たぶん、大筋においては、しゃぁるさんが思っているとーりだろう」と思います。
過去に自分が書いた文章を確認してないので、ズレがあるかもだけど、大ざっぱに言えば「日記猿人に関する感情」は、
て、ことで。
(同日23:00に追記)
「さよばう」を読み返しても、諸星がどうして日記猿人に登録しているのか、という話題が書いてないので、ワープ日記をぐるぐるを探してみた(ワープサーチは動かないなぁ。今、別サーバと別CGIを準備中なんだけども)。あ、発見。
発見したのは、980516b[Web日記リンク集とは何か? ] だ。
とりあえず該当部分だけ引用しておくと、
私が日記猿人に参加している理由は、である。ってこの「理由」もさらに過去のワープ日記からの引用(リライト)なのだが。
- 創設当初のしがらみ。(アンチ津田日記リンクスとして開始された「ばうわう氏の日記猿人」に対する監視目的と、アンチ津田日記リンクスであるが故の可能性に対する期待)
- 純粋に、新しいWeb日記リンク集に期待して。
- Web日記を公開している以上、リンクは広ければ広いほどよいから。
あと「ランキングは人の暗黒面を引き出すからよくないと思う」とか「日記系リンクスの価値はWeb日記の情報を集積していることである」とか、そういう主張が書いてあるので興味ある人は読んでくれると吉。
ちなみに、この記事、先に引用した「980630b[ 630 / 630事件二周年 ] 」の関連記事リストにないな。「とりこぼしあります」と書いてあるが、本当に取りこぼしていた。(ん? なんか取りこぼしていたことに気付いていいわけした記憶があるが、別の時だったか? まいいか)
(同日23:00に追記はここまで)
って、ばうわう氏、981112付で日記猿人管理者遠藤さんから、再度追放の警告を受けていたのか。
全然知らなかった。
日記猿人と、ばうわう氏と「さよなら、ばうわうさん」に関する日付を年表形式にしてみたのは、別項。
スターウォーズ・エピソード1の宣伝ポスターにツッコミいれる熱狂的SWファンについての考察が、HOTWIREDの日本語版にあったのでリンクしちゃう。
「無粋なツッコミはどうかと思う」ってのもわかるし「ツッコミ入れるのが愛だ」ってのもわかる。
HOTWIREDに書いてあることは、なかなかもっともであるが、オレ的には、公式サイトの「宣伝ポスター」を観て思ったのは、
「アナキンって、ダミアン?」って感じかなぁ。
いずれ悪の権化ダース・ヴェーダになって、いろいろ悪いことや間抜けなことをした挙げ句の果てに、息子に負けて、しかもその自分を倒した息子が目の前で「ぱぱーぱぱーたすけてーいたいよーいたいよー」とかみっともないことを言うので、悪の究極権化の銀河皇帝を「後ろから持ち上げて、ゴミ箱に捨てたら、銀河が平和になったよん」的に倒してしまって、マスク外したら「只の太りすぎのハゲ」だったことがわかってしまうようなアナキン少年の大活躍や、そんなアナキン少年が堕落していく姿を描いた映画が観たいのかなー? と思ったりしていたのであるが、このポスターを観ると、少なくともルーカスは「そんなアナキン少年が堕落していく姿を描きたい!」のは間違いないだろうなぁ。
スターウォーズ、帝国の逆襲、ジェダイの復讐と進むにつれて、「ただのステレオタイプで間抜けな悪党だと思っていたダース・ヴェーダが、実は『人間の心の隅にある闇とその闇の克服』という深いテーマを内包していた」のがわかってくる、ってのは確かに、素晴らしかったが、先に結論を知っている我々がエピソード1,2,3を観るということはすなわち、文章の前後が入れ替わって「『人間の心の隅にある闇とその闇の克服』という深いテーマを内包しているキャラクターの末路は、ただのステレオタイプで間抜けな悪党だった」になってしまってねぇ。
いや、なんか文句つけてますが、SW映画がどんどんできるのに対しては期待してますよ。特別編の「帝国の逆襲」とか、久しぶりに観ても手に汗握ってしまって「あぁ、入場料以上の価値がある映画って、こういう映画かもな」とか思ってしまったりしたし。「こんな続編なら作らない方がまし」と言いたくなる可能性は大ですけど、まぁ「続編はなかったことにする」ってのには慣れてるし、「イォーク・アドベンチャー」や「エンドア」があるから、もぉ、どうでもいい、というか。
個人的にはエピソード1あたりでは「こんな純真なアナキンがあのヴェーダに……」ってところよりもどっちかというと「こんなナンパなオビ・ワンが、あんな陰気な老人に……」ってあたりが期待大だな。どれぐらい「ナンパでゴージャスな若いジェダイ・オビワン」してるのかは謎なんだけども、期待したい。
で、こぎれいなデザインのファルコン号とか出てきたらいいなぁ。んで、エピソード2,3に進むに従って、どんどんわけわからない形になっていくのだ。「建造当時のファルコン号は、前後が逆だった」とかだと衝撃的でいいなぁ。うひょーかっこいい。あ、でも、ロボットに変形したりするのは遠慮したい。
過去ワープ日記、mailフォームが、サクラのサーバ移転によってリンクが切れてて作動しなくなってるんだけども、w9806e.htmだけ、書き換えた。
先に引用した「ワープ日記980630b[ 630 / 630事件二周年 ] 」の中に露骨にFORMの部分があるから。
♪ひらめーく稲妻、とどろく雷鳴ぃー
雨降ってると思ったら、なんか落雷が。しかも「ゴロゴロ」じゃなくて「ずどむ!」と腹に響く音が。
なんか雨といい妙に蒸し暑いところといい落雷といい、なんかとても11月とは思えない天気だ。
(ちなみに変身忍者嵐の主題歌の正しい歌詞は「きらめく稲妻、轟く雷鳴」らしい。オレの感覚からすると、稲妻は閃くもので、きらめくものじゃないなぁ。標準的な日本語ではどうなのか知らぬが)