Warp Diary Special Issue
ByeByeBowWow

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ordinaly Warp Diary 970924

morrow@hf.rim.or.jp
WarpBoard
【さよなら、ばうわうさん】ver.3.1.0
970924
[1.0.0] [1.1.0] [2.1.0] [LATEST]
【変更点】
970926[3.1.0]:誤字脱字の訂正、ならびに、文章の追加と改訂。追加・改訂部分は基本的に<970926に追加><970926に改訂>などで明示的に示してあります。改訂によって話の流れやデータの増減などが発生し、それが激しいと私に感じられる場合には、そのつど、注意書きを行います。それが無い場合は「誤解の余地を減らすために表現を変えただけで、基本的な流れと情報量に変化はない」と私が判断した、ということです。また、あきらかな誤字脱字に関しては明示せずに訂正を行いました。
970925[3.0.0]:公開
970924:[Part-3](19日夜更新部分) 3-1.日記猿人の歴史について。(「ワシから。」から「こんな「仲間内私信メッセージボード集に変わってしまった。」まで)について、述べた。

(執筆中)
 9/22をもって日記猿人から去った「ばうわう」さんについて、氏の決意表明文を読みつつ語る予定。

 今回は前回の[2.*.*]で行った分類でいう[Part-3](19日夜更新部分) 3-1.日記猿人の歴史について。(「ワシから。」から「こんな「仲間内私信メッセージボード集に変わってしまった。」まで)について、述べる予定。

 これで24日までに発表された「お知らせ ばうわう」で言及してない部分は、

[Part-3](19日夜更新部分)
3-3.メール1(赤):「会社IEに登録」氏
3-4.メール2(黄):「私の恋人は」氏
3-5.メール3(緑):「カッコイイと思った。」氏
[Part-2](18日?更新部分)
2-1.本名攻撃について。
(970920版にはありません。)
となります。

 なお、「お知らせ ばうわう」の「97/Sep/20 (Saturday) 16:43:50JST」最終更新の版を元に引用を行います。


ワシから。

 どうぞお先に(^_^;;

「日記リンクス」という、理系大学生の日記リンク集がかつてあって、そこでは、公開されている日記なのに、仲間あての連絡(「私信」というのが一般的?)ばかりで、 インターネットという不特定多数が使うシステムでは、 とてもとても、なじまないものでした。

 さて、今回の文章で指摘すべき点は、最初のこの文に端的に現れているのですが、これを私なりに書き直すと、
  1. 「日記リンクス」という日記リンク集があった。
  2. 日記リンクスの日記は私信ばかりだった。
  3. インターネットは不特定多数が使うシステムである。
  4. 私信ばかりの日記はインターネットにはなじまない
と、なるでしょうか。さて、ここで1.「日記リンクスの実在」は、特に問題ないでしょう。確かに存在しました。2.「日記リンクスの日記は私信ばかりだった」に関しては、具体的な数字をあげてもらわないと「ばかり」だとは言えないのではないでしょうか。ばうわう氏が批判/非難する時に使う常套手段として「##ばかりだ」があり、ごく一部の特性を全体に延長して(過度の一般化して)語られても、それは対象を正しく批判することにはなりません。しかし、ここで私も「日記リンクスの日記は私信ばかりではなかった」と具体的な数字をあげて反論できないわけで(日記リンクスの当時の資料が入手できないから)ここは「ばうわう氏には、私信ばかりのように思えた」という点は認めることにします。これが氏の詭弁、あるいは被害妄想の産物である可能性は、充分考えられますが、ここでは認めることにします。
 さて、問題なのは次で3.「インターネットは不特定多数が使うシステムである」、ですが、今回の、ばうわう氏の文章の前提になっている氏の信念とも書かれているこの文章は、ある意味で誤解です。後でもう一度書きますが、「インターネットを不特定多数が使うのは事実であるが、特定のwebページを不特定多数が使うわけではない」ということです。「特定のwebページは、不特定多数からアクセスされる可能性はあるが、不特定多数全体に有用であることは要求されない」と言い換えてもいいでしょう。あるいは「特定のwebページが不特定多数からアクセス可能なのは、不特定小数へのアクセスを可能にするための方便であり、特定のwebページは、特定小数に有用であればよい」のであります。まず、ばうわう氏の主張の前提となっている「インターネットは不特定多数が使用する」という文章は暗黙に「不特定多数に有用でなくてはならない」ということを主張していますが、それは誤解であるということ、よって今回の文章での、ばうわう氏の主張は前提から間違っているということになります。4.「私信ばかりの日記はインターネットになじまない」に関しては、「私信ばかりの日記こそがインターネットになじむ」という主張すら可能です。これらについては、また後で述べます。

その理系学生はもう最終学年だったので、その日記リンク集は終焉(しゅうえん)が自明の理となりました。

 ばうわう氏がここで認めているとおりに、日記リンクスが終焉したのは、主に主催者が最終学年で卒業してしまったためであり、ばうわう氏が暗黙に主張しているような「インターネットにそぐわなかった」からや「間違っていたから」ではありません。さらに申し上げれば「ばうわう氏が勝ったから」では、まったくありませんので、妙なご自慢はお控えください(^_^;;。(今回の文章ではなく、ばうわう氏が過去に複数回「あ、わしがつぶしたんだった」という類の発言をしていることに対する皮肉(^_^;; ですので、悪しからず)。(結局「ばうわう氏が代表する物に負けた」のは事実かも知れない、とは思いますが。この話はまた後で。)

 そもそも、他人に読まれることを無視しながら、人気投票をしていたシステムに疑問を持ち、ワシは「日記猿人」という自分の日記リンク集を作りました。

 この文章と前の文章のつながりを(無理に)読みとると、ばうわう氏の論旨の流れは、

  1. 日記リンクスは終焉を迎えていた。
  2. ばうわう氏は、以前から日記リンクスのありかたに疑問を持っていた。
  3. そこで、日記リンクスの終焉を機会に、自分なりのリンク集「日記猿人」を立ち上げた。
  4. 日記リンクスへの疑問とは「読まれることを無視しながら、人気投票をしていたこと」である。
と、なるでしょうか(おぉ、なんだ、そういうことだったのか)。日記リンクスが本当に終焉に向かっていたかには疑問もないではないですが、まぁ、そうとしておきましょう。原因はどうあれ、オリジナルの日記リンクスが終焉したのは事実ですから。で、ここで問題なのは「読まれることを無視していたのか?」ということでしょう。「私信が書いてある日記」をして即ち、「他人に読まれることを無視した日記」と断定しているわけなんですが、そこに疑問があります。「私信が書いてある日記」もまた、読者サービスとして「私信が書いてある」場合があり、また、純粋に私信がである場合にも、それは「覗き見装置」として、読者サービスになる可能性があるわけです。ばうわう氏が「それは自分の趣味ではない」と主張するのは自由なわけですが、「読者無視」だと断定できない可能性はあるわけです。さらに「読者無視」だとしても読者無視した日記が人気投票に参加して、何か問題があるのでしょうか? 本当に読者を無視した日記なら、読者の事を本当に考えた日記が沢山の得票を得ると考えた方が自然なのではないでしょうか? 具体的な証拠がないのにこのようなことを書くのは「邪推」の謗りをまぬがれないでしょうが、ばうわう氏がここで主張したかったことは「読者無視の日記が人気投票をしているのが間違っている」ではなく「読者無視の日記が人気投票で(自分の)読者のことを考えている日記よりも得票が多いのが、間違っている」では、ないのでしょうか。それが故に、ばうわう氏は、常に「仲間内投票が行われている(からずるい)」「自分より先に登録した日記は、得票数が多い(からずるい)」「自分の日記はアクセスが多いのであるから得票が多いのが当然である」と、他人の票を果てしなく疑い、自分のアクセス数を限りなく誇るのではないでしょうか? たしかに、ばうわう氏が「後から参入した日記が得票総数しかないランキングに参加するのは不公平だ」と主張したのは、正しかった。総数ランキングは長くいる常連(長老)らの自己満足のために存在していたのもまた事実でしょう。ただ「面白い(と自分が思う)日記が上位にないのは、何らかの不正操作の結果である」と考えるのは、それは少し被害妄想が強すぎやしませんか? 「この日記は作者が友達が多いために人気があるが、それは組織票にすぎない」と主張しても「友達が多くて沢山の友達が読んで投票する日記」は、ふつう「人気がある日記」ではないでしょうか? 「プロの物書きだから、とにかく読者が多く、読者が闇雲に投票するので、得票が高い日記」も、これまた「人気がある日記」ではないでしょうか? 純粋に「日記のおもしろさ」だけでランキングを決めるべきだ、という意見は立派であり理想として大切にしたい考えですが「日記のおもしろさ」を厳密に測定することはできない、という点で実現は難しいでしょう。そして、「日記のおもしろさ」はそれこそ読む人により千差万別であり、「ワシの日記がトップにならないランキングはどこかおかいし」と強く主張されると、「自分の日記がトップに立つべきだ」という主張の方がどこかおかしく感じられるのではないでしょうか。そのため、現実問題として、ばうわう氏が色々な手段(そのすべてが反則である、とはいいませんが)でランキング上位に来たときに、参加者の多くが「どこかおかしい」と感じたわけです。

 どうも、このあたりは、冷静に、ばうわう氏の文章を分析するだけに収まりそうにないので、先に進みましょう。前節の内容には、証拠を出さずに断定する「いいがかり」に近い内容が含まれている可能性があることは、白状しておきます。私は「問題は、自分の得票にこだわる、ばうわう氏の態度にあった」と結果的に主張しているわけですが、ばうわう氏が自分の得票にこだわってなかった可能性もあるわけです。私は個人的にはその可能性を信じてないわけなんですが(^_^;; 読者の皆さんにその可能性が無いと証明することは(現時点では)できないわけです。

さて、

 その後、池川という人がコンピュータプログラムを作ってくれたので、「日記猿人」は、システム的に「日記リンクス」に追いついたのです。

 これは、まぁ、事実でしょう。追いついたどころか、ある時点で追い越した、のも事実だと思います。

 ここで強調したいのは、 ワシは、私信だらけの日記リンク集がいやだった、というその一点だけで、「日記猿人」と名前をつけて、リンク集を始めたのです。

 悪意を持って、ばうわう氏の文章を読み邪推する、という行為は、この文章を書いている私にとっては、致命的な行為になるわけなのですが(読者の多くが、私の目的が、その「邪推」にある、と思っておられるかもしれませんが(^_^;;)、その致命的な邪推の欲望が押さえきれなくなるような部分が、ここらあたりの、ばうわう氏の文章には沢山あって、自制するのが大変ですね(^_^;;。

 この文章は、何をここで強調しているのでしょうか? 私には本当にわかりません(^_^;;「ここで強調したいのは、 ワシは、私信だらけの日記リンク集がいやだった、というその一点だけで、「日記猿人」と名前をつけて、リンク集を始めたのです。 」「他意は無かったんだ信じてくれ!」とでも、言いたいのでしょうか?(^_^;;。(それにこの文、なんか、かかりが変だよ。「強調したいことは、」で始まったなら「なになにということです」で終わってくれないと。「強調したいことは〜だけで、」とかかっているなら、後ろの「『日記猿人』と名前をつけてリンク集を始めたのです」が、宙ぶらりんだし。うーん、「ここで強調したいのは、ワシは私信だらけの日記リンクスがいやだったという一点だけで「日記猿人」という名前をつけて、リンク集を始めたことです。」かな? 強調したいのは「はじめたこと」なのか「一点だけ」なのか。それとも「他意はなかった」なのか(^_^;;。

 その後、システム的に補強された「日記リンクス」でしたが、多くの人の支持を得ることは、もうありませんでした。

 この文章も、陰謀史観本を読み慣れているとつい気になるような文章で(^_^;; ここで唐突に「その後」「もう」と書いてあることから、この文章の前の時点に「なにか」があったことを暗示しています。(トンデモ本みたくなってきたなぁ)。「なにか、があったため、その後システム的に補強された日記リンクスだったが、もはや、多くの人の支持は得られなかった」と読める文章です。文章のならびから、そのまま読むと「なにか」が「日記猿人の開始」と「誤読」できるように、並べられているわけです。つまり「日記猿人を始めただけで、もはや日記リンクスは支持を得られなかった」と読めるわけです。......って、陰謀史観ゴッコもいいかげんにしましょう。この二つの文の間には「日記リンクス630事件」が入りますね。ばばーん。衝撃の事実。(ここで衝撃うけた人、不勉強です。知らないのはしかたないし、知れ! と強硬に主張すべきかどうか、わかりませんが「よくわかりませんが、うんぬん」いう前にちょっと調べてね......ぐあ、オレもどこみていいかわからないぞ!)。

 ま、ここで630事件を「わざわざ持ち出す」のは、私の史観によるもので、630事件は本質ではなかったとい議論も可能でしょう。けれども、私はここで630事件を持ち出すので、持ち出さない方は是非、その路線でこの件について書いていただきたい。(これは「書いていただきたい。書けないんだろ」という挑発ではなく、ここで630事件を持ち出さずに、スマートに解釈できる方法が自分ではありそうだけど、思いつかないので、本当にどなたかが書いてくれるのを期待してるんです。)

ということでしょうか。

「日記リンクス630事件」
 日記リンクスの管理者、津田氏が、再三の注意にもかかわらず、日記リンクスを「独自の解釈で利用」し続ける、ばうわう氏を予告無しに1996年6月30日に削除。同時にランキングも停止。ばうわう氏の賛同者と思われていた数名の登録者も削除された、という情報がひろがり混乱が広がる。一部参加者(参加者の多く?)が、管理者の予告無しの削除を非難する。

(資料のつもりで当時の「堕落日記」なんかを読み返して、悲しくなったっす......津田さん、こんな文章かいてすまん。悪いのは全部ばうわう、だよ。やっぱ。面倒くせいよ。もうこんな文章書くの。何書いたって無駄じゃん。理解する気もないんだし。.......とか弱気になってもしょーがねーな。)

 このあたりを「ばうわう氏の主張の大筋を認めた上でその矛盾を指摘」とかいう書き方で進むのは、ちょっとオレにはできそうにないので、そういうのが嫌なかたは「あーこいつ、なんか感情的になってる。かっこわるー」とかブーイングしながら適当に読み飛ばしてくれい。

 津田さんに対して無礼は承知であえて書けば、NEO日記リンクスが支持を得られなかった理由は、

  1. 津田さんが積極的に、NEO日記リンクスを押し進めていくという姿勢を強調しなかった点。(最後までテスト中でしたよね?)
  2. 「予告無し強制削除」が、登録者に対して、非常に恐ろしく感じられた点。
  3. あくまで「善意の利用者によるリンクス」という理念を捨てなかった点
 では、ないでしょうか。1.に関しては、卒業時に閉鎖されることが予告されていたわけで(同時に、ばうわう氏が「10年続ける」とブチ上げていたわけで)、利用者として、積極的に参加する気力がわかなかったのではないでしょうか。2.に関しては、心情的には充分わかる気がする反面、はやり、相手が何であれ「いい加減にしないと何月何日何時にどういう措置をとるぞ」とはっきり言わないと伝わらないこともある、ということでしょうか。それと私は個人的に「リンク私物説」には、一部納得できかねる点があります。(多くのネットワーカーは「リンク私物説」を受け入れるようですが)。3.に関しては、これが結局、最大の原因かと思いますが、NEOリンのシステムでも「更新報告は誰にでもできる」仕様になっていた点からも考えて、「基本的に日記リンクスの利用者は善意の利用者である」という前提を津田さんは、捨てる気がなかったわけで、悪意の人の外部からの攻撃によって停止するハメになった日記リンクスと、悪意ある人の外部からの攻撃に防衛力をつけた日記猿人を見比べて、ユーザーが日記猿人を選ぶのはしかたなかったのではないか、と思います。結局「日記リンクスのユーザーにも悪党はいる」という悲しい現実に対して「ユーザーに悪党がまぎれているシステムなら無くなってもしかたがない」と考えるか、「悪党を排除して動かしつづけよう」と考えるか、でしょう。日記リンクスが無くなってしまったのは残念ですけれども「善意のユーザーによるユートピア」という理想に殉じたと考え、日記リンクスの死を私は受けとめるわけです。(勝手な)。(そして悪意のユーザによる外部からの攻撃に防衛力を持っていた日記猿人は、モラルのないユーザーによる内部からの攻撃にあい、ついに強制削除ルールを得るに至った、と。猿の惑星で猿殺しを憶えた猿はついに、というのを連想しますな。)

池川という人と、せんべいという人とで「日記猿人」をやっていた時、 日本の青山という街で、 ワシとせんべいという人と、2人でこう話したことがあります。
「池川氏は、プログラマだから、なんでもやりたいみたいだ。 たとえば、掲示板も。でも、掲示板を始めると、特定の人を攻撃したりするムードや、特定の仲良しグループのたまり場になる恐れがある。だから、掲示板は技術的にそう難しいプログラムではないのだろうけれど、絶対、日記猿人では掲示板は設置しないようにしよう」。

 たしかに、掲示板があると仲良しグループのたまり場になる傾向があるのはありますね。だから、仲良しグループのたまり場になるのを嫌う、ばうわう氏が掲示板を作らない方向で運営を進めようとしたことは正しかったですね。しかし、web日記をリンクする行為をしながら同時に「仲良しグループのたまり場」になることを否定することが、果たして矛盾しない行為なのか、という疑問がありますね。後々あきらかになってきますが、ばうわう氏の望む「日記猿人」の姿、氏の望む日記猿人登録日記の理想的な姿、というのは、非常に範囲の狭い日記なのではないか、という気がします。そして、それは多くの日記作者が望まない形式なのではないでしょうか? 多くの登録者が望まない形式を夢想し、それをうまく説明できなかった所に、日記猿人創立者のばうわう氏の悲劇の始まりがあったのではないでしょうか?
 そして掲示板が特定の人を攻撃する場になる、という指摘ですが、これは実にそのとおりで、掲示板はケンカや中傷を誘発しがちです。理由もなく中傷されることすら起こる掲示板ですから、明確な不正行為などをした日には、徹底的に追求されるのは当たり前ですね。

その時、せんべいという人に、ワシはきっぱりと言いました。
「日記猿人は10年続けたい」。
 

 こう言うと失礼ですが、「10年続けたい」と考えることは自由ですが、考えたからといって「10年続く」かどうかは明かではありません。10年続けるためには、それなりのシステムが必要で、このシステムは計算機的なプログラムに限らず、ルールその他、運営ノウハウを含みます。ばうわう氏の構想は、このシステム部分にどこか致命的な間違いを内包していたのか、あるいは、ばうわう氏の構想が根本的に矛盾をはらんでいたのか、どちらかではないか、と思います。特に、「管理者のカラーを前面に押し出した、公共性の強いリンク」というような発言をしていた、ばうわう氏は、自分の発言が非常に矛盾を起こしやすく、実現しにくい物を示していたことに気付いていたのでしょうか?
 とはいえ、池川さん、せんべいさんのアイデアは、現在にいたるまで極一部しか表に出ていないとボクは思っているので、すべてが実装された場合、10年続くのもあたりまえなシステムになるのかもしれません。その全体像を考えて「10年続けたい」と発言したのだとすれば、確かにそれは、立派なビジョンだったと言えるでしょう。
 しかしながら、ばうわう氏だけに限って考えると、10年続くようなビジョンを持って、それを理解して行動していたとは思えません。(UDOを開始したことからもうかがい知れます)。10年続くようなリンク集を構築できるようなシステムを理解できない人のシステムが、開始から2ケ月弱で崩壊してしまいました。彼はそれをして「10年続くはずのシステムが崩壊したからには、何かの異常事態があったのではないか」と話を展開するのですが、10年続くことを夢想することは自由ですが、それがうまく行かなかった理由をすべて外部に求めても無駄でしょう。一番大きな原因は、ばうわう氏が「リンクの管理者」がどのようなものであるかを理解してなかったことにあるのですから。

 たかのという人が「ReadMe」というリンク集を作ったとき、 ワシは、「日記猿人」もそこへ登録できるように考えました。 でも、リンク集がリンク集に登録するなんて、わがまますぎます。 当時、「ReadMe」は 「日記猿人」にかなりの対抗意識を燃やしていたようでしたから。
 そこでワシが考えたのは、「ReadMe」に登録するために 「日記猿人」参加日記への毎日のコメント集でした。「UDO」(誘導)という読み物です。今でいう、「日記読み日記」というものです。
「UFO」未確認飛行(Flying)物体(Object)にかこつけて、未確認日記(Diary)物体(Object)「UDO」と名づけました。「ReadMe」から「日記猿人」へと読者を誘導(UDO)してしまおう、という意味もあります。

 UDOの意図が、ReadMeへの登録にあった、というのは私にとって初耳だったわけなんですが、目的はどうあれ、一つだけ指摘しておきたいのは、「Unidentified Diary Object」=「UDO誘導」というネーミングは、ナイス、だ、ということです(^_^;;。まぁばうわう氏の駄洒落はいったネーミングセンスを嫌う人も少なくないのかもしれませんが、私はこの名前は好きです。

その後、いまでも、「ReadMe」のウラの掲示板では、ばうわうバッシングが、匿名という卑怯な形で展開されています。現在「日記猿人」管理人の遠藤という人も、積極的にバッシングを長期間行っていた人です。

 おいおいおいおいおい(^_^;;。突如、話がReadMEたたかう掲示板への憎悪に変わってしまったんですが(^_^;;。まぁ、たたかう掲示板で、匿名による、ばうわうバッシングが展開されているのは、事実でしょう。正しい批判の面も無きしもあらず、ですが、純粋な「バッシング」も多数見られます。その点は、いいとして、ここで突如、遠藤氏@日記猿人管理人を名指ししてますが、なんか証拠でもあるんでしょうか?(^_^;;.....と、たたかう伝言板記事を検索してみた結果、うーん、一部、遠藤さんの記事は削除されているので、何とも言えませんね。残っている記事でも、遠藤さんは例のごとく強い調子で書いているので、積極的なバッシングを長期間行っていた、と言われるのも無理はないかなと。と、遠藤さんが悪いわけではなくて、基本的に、批判・非難・中傷に区別のない、ばうわう氏にかかると、遠藤さんの批判行為は、バッシングとしか形容できないのもしかたないな、と。まぁ、ばうわうさん、積極的に長期間、卑劣な形で逃げ回っていた、のは誰だったのか、というのを少し考えてみてはいかがでしょうか。

もしかしたら、このバッシングに、ワシは時々ブチ切れていたのではないでしょうか。

 失礼ながら「時々」ではなく、ばうわうさんは、いつもブチ切れてないでしょうか? 堪忍袋の緒ではなく、脳のもっと大事な部分が......。

この陰湿なバッシングこそ、すべての元です。 そんな卑怯な方法で発言した人に対して、ワシは、さまざまに、抗議行動をとってきました。もしかしたら、その抗議行動を、知らない人々がワシの「不正」かなにかに見えたのではないでしょうか。

 陰湿なバッシングこそがすべての元凶だったかどうかは別として、ばうわう氏がとってきた「さまざまな抗議行動」の詳細が是非知りたいのですが。ばうわう氏がいったいどのような「抗議行動」を行った(と自分で思っているか)には、非常に興味があります。ぜひ、詳細に公開していただけないでしょうか。その内容によっては、ばうわう氏擁護の大キャンペーンを行うのもやぶさかではありません。事情を知らない人が「不正」と勘違いしかねない抗議行動とは、どのような行動なのでしょうか?

きっと、「不正」うんぬんとワシを言う人は、この陰湿な掲示板の存在を知らないのではないでしょうか。

 確かに、たたかう掲示板の書き込みを読んで、ばうわう氏に同情的な心情になる人は多いでしょう。それは否定しません。ばうわう氏は理不尽に攻撃されいている箇所もあります。け・れ・ど・も、私は掲示板の存在を知っていますが、不正うんぬんに関しては、はっきりと言います。「ばうわうさん、あなたは、日記猿人アンケートに対して、複数のパスワードを利用して、複数投票をしましたね。それは、やはり、たとえ掲示板で攻撃を受けたからといって、していいこととは思いません。管理者のいうように謝罪文を書いたらいかがでしょうか?」と。それと、ReadMeの裏掲示板で攻撃されたからといって、どうして日記猿人のアンケートの不正を行おうと考えたのでしょうか? せんべいさんではありませんが「日記猿人アンケートがあなたを攻撃でもしたのか?」と聞いてみたいです。

いまでは数多い「日記読み日記」ですが、当時、ものすごい反発をくらいました。
「人の日記に偉そうにコメントをつけるな!」。

 そりゃーばうわうさん、あなたの文章が「偉そう」だったんでしょう(^_^;;。「人の日記にコメントとつける行為」が当時は「偉そうだからやるべきではない」という風に見られていたような記憶があります。そこであえてそれをやり、案の定、非難を浴びたと。それなら、そこであなたは、自分の意図することを説明しつつ、「偉そう」に見えない文章を模索すべきだったのでは? いまとなっては当時のUDOは手に入らないわけで、どの程度の文章だったかは、想像の域なのですが。

 この非難は、主に、「日記リンクス」を好きだった人から、集中砲火を受けたように思えます。

 まぁ、ばうわう氏の「日記リンクス陰謀史観」につきあっていたら、いつまでたってもおわらないわけですが「日記リンクスが好きだった人」というのは、どういう表現なのでしょうか?(^_^;;。「日記リンクスが嫌いだった人」や「日記リンクスがどうでもよかった人」というような分類を日記猿人登録者にたいして行っていたわけでしょうか? それとも、単に「日記リンクス管理者擁護論者」などの言いかえなのでしょうか?
 それに、端的に言えば、日記猿人開始当時の登録者の大半が「元日記リンクス登録者」だったのではないでしょうか? 日記リンクスvs日記猿人という図式は、私も含めて多くの人がとりがちですが、日記リンクスと日記猿人の登録者は、多くがだぶっているわけで、明確に分けられるものではないでしょう。(ばうわう氏が手動で開始した最初期の「日記猿人」からして、そもそも、日記リンクスの登録者リストを並べなおしたものではなかったですか?)

個人名を書いて恐縮ですが、谷久(やく)さんが「BOWDO」(暴動)というワシへの非難専門ページを開設し、そこに稀Jr(まれにジュニア)さん、フナイアキラさん、PDPDPさん、井筒亭さんなどが、ワシの日記に対し、いちいち厳しい言葉を投げかけました。

 まぁ、BOWDO(暴動)が掲示板だったことは、たしかにまー、あまり、そのー、いい感じじゃなかったのは確かですね。ここでまた先ほどと同様の「攻撃されたからって、不正をしていいことにはなりませんよ」という説教を繰り返しても、いまいちですしねぇ。ただ、一つ、ばうわう氏が自覚してない重大なことを指摘しておきましょう、UDOを書いていた当時、あなたは日記猿人管理者だったわけです。登録者の強制削除すら可能な権限を持った管理者が、登録されている日記をとりあげて、あーでもない、こーでもないと書くわけです。そして、書かれた日記の作者は反論の余地がない。それは、相手が削除権を持つ管理者だからです。特権を持つ管理者であるがゆえに、もっとも控えるべき事を、あなたは得々としてやっていたわけです。もちろん、意図としては、紹介目的だったかもしれませんが。(現に「当時、UDOに書かれたことに反論したかったが、削除が怖くて書けなかった」という意見すら出ているわけですし)。

ワシの実際の顔写真を、おもしろおかしくアニメーションにした人もいました。

 まぁ、腹が立つのも仕方がないとは思いますが「わら人形にはるのも可」などと書いて公開していた顔写真をおもしろおかしく加工されてしまったわけですから、自業自得というのもなんですが、笑って流すぐらいの度量の広さを見せて欲しかったものですね。まぁ、確かに「わら人形にはってもいいよ」と書いてあるから、といって、わら人形に貼る方も貼る方なんですが。
 この事件から以後、ばうわう氏はすぐに「著作権違反」を持ち出すわけなんですが、この写真の件はおそらく「肖像権」の問題になると思います。著作権については微妙なページを作成する、ばうわうさんだけに、このあたりの用語には、注意していただきたいな、と思います。著作権は著作者の権利を保護するための物で、他の著作者の言論の自由を妨害するためにあるものではないですから。

そのくらい、日記読み日記は、一般的ではなかったのです。そして、日記読み日記は、受け入れられなかったのです。

 この攻撃には参りました。

「日記猿人」を「ReadMe」でPRするために始めた「UDO」が、 予期せず、ものすごい反発をいただいたのです。

 当時、日記読み日記が受け入れられにくい土壌があったのは事実でしょう。しかし、時期(630事件直後)、人物(ばうわう氏)、立場(日記猿人管理者)の三拍子そろった状態で、他人の日記を遡上にあげて批評・論評する(ばうわう氏用語では「非難」・「攻撃」・「中傷」と同値)日記を書くというのは、よほどの度胸か、何も考えてないかのどちらかだと思います。
 しかし、予期しない大反発を食らったら、とりあえず止めればいいんじゃないか? と思ってしまうのですが......。

このショックは相当で、遠くアメリカにいたせんべいという人と、池川という人と相談をしましたが、時差や、その2人の仕事上のこともあり、援護していただける前に、待ちきれなくなったワシは、「日記猿人」管理者をやめる結論を出してしまいました。

 正確には「援護していただける前に、待ちきれなくなったワシは、自分を攻撃していた日記を予告無く削除。削除した日記に一行コメントからリンクを貼った日記を予告無く削除。ついでに、関係者の日記も削除。強制削除に対する反発に耐えられなくなったワシは、「日記猿人」管理者をやめる結論を出してしまいました。管理者をやめても止まない執拗な追求に耐えきれなくなったワシは、「日記もインターネットも永久におしまいです」と宣言して、日記とホームページを消してしまいました。」と、いったような事情ではなかったでしょうか?
 そしてこれが世に言う「日記猿人812事件」。

 津田さんが強制削除を行ったときに、あれだけ文句を言った人物が、自分が管理者になると、強制削除を行うというあたりが、私がばうわう氏が信用できないと感じる点です。あの強制削除によって、津田さんの強制削除に反発して「強制削除のない日記猿人」という理想を信じてついてきた登録者を、ばうわう氏は自らの手で裏切ったわけです。同時に氏は、自分で生み出した「日記猿人」というコンセプトに対しても、裏切りを働いたわけです。
 あの時、ばうわう氏がとれる方策はまだいくつもあったはずなのに、なぜ、ばうわう氏だけは断固として行ってはいけない強制削除を行ったのか? 行ってもいいという決断があったのなら、なぜ、事後に釈明なり説明なりをしなかったのか? 管理者を止め、管理者としての責任から逃げ、インターネットを止めると宣言することで、web上の言論者であることからも逃げた氏は、この時点で、ネット的に死に、以後は、まったく信頼のおけない人物、「ネット的禁治産者」と呼んでも過言ではない状態だと、私は考えます。(そういう状況の人物の発言に反論しているのは、なぜだろう? と自分でも思う訳なのですが)。

 その後、1か月、ワシは日記を休み、1996年10月に復活し、現在に至っています。

 ばうわう氏をからかうときによく使われる、世に言う「永遠の一ヶ月」の語源ですね。一ヶ月の休止で「禊ぎ」がすんだ、ということに、ばうわう氏世界ではなっているわけなんでしょうが、ばうわう氏を知る多くの人が、氏を相手にするのを止め、一部の人が、執拗に休止前の責任を追求し、一部の人が、暖かく許した、と。

 同時に、ワシの価値観に共感する人が増え、毎日1000アクセス、 のべにして毎日4000アクセスをいただくようになっています。

「価値観に共感するからアクセスしてるのかぁ?」という無粋はツッコミは止めておいて。まぁ「価値観」という言葉が何を示すのか謎なんですが、捨てる神よりも拾う神の方が、多かったようで、インターネットも捨てたものじゃありませんね(^_^)。

それからのみなさんとのトラブルは、きっと、ワシの価値観とみなさんの価値観との違いのためでしょう。

 それは実にそうでしょう。自分の立場を考えない。物事の理由を考えない。トラブルの原因は常に相手にあると考える。批判はすべて「攻撃」とみなす。ときどきキレる。自分がやられて嫌なことでも相手には行う。追求されると逃げる。ほとぼりが冷めると平気で戻ってくる。こういう行為を平気で行う「価値観」を持つ人がいるから、トラブルが起こるんだよ。

 「不特定多数のことを考えない日記は、インターネットにはふさわしくない」 とか、「仲間うちどうしにしか伝えないメッセージは、インターネット上では日記ではなく、メールでやりとりするべきだ」とかいう、ワシ独特の価値観です。

 まず、その価値観が間違っているのはいいとして、その価値観と、日記リンクス、日記猿人でおこしたトラブルが、どういうふうに関連するのか、説明していただきたい。(途中、私がくどくどと日記リンクスの話をしたために、ばうわう氏の主張の流れが切れてしまったのかとも思ったのですが)。上から順にばうわう氏が主張してきたことを追ってきましたが、「不特定多数のことを考えない日記は、インターネットにはふさわしくない」 とか、「仲間うちどうしにしか伝えないメッセージは、インターネット上では日記ではなく、メールでやりとりするべきだ」とかいう価値観から、どうして、812事件が発生するのですか?(630事件が発生するのは、若干理解できなくないですが)。「不特定多数のことを考えない日記は自分の主催するリンクに合わないから」や「仲間内日記はメールですべきもので、自分の主催するリンクに合わないから」と主張して削除したなら(それはそれで横暴でしょうが)理解できなくもない。しかし、ばうわう氏は「自分が行ったUDOという活動に激しい反発を受けたから、反発者を削除した」と主張しているわけで。主張する「独特の価値観」と、トラブルはなんの関係もないではないですか。関係ないことを書いても、説明にはなりません。(何あたりまえのことを書いてるんだ)。
<970926に追記>
 自分の文章につい流されてしまって、大事なことを書き忘れていたのですが、630事件や812事件は、(私が勝手に持ち出した)本来別の話だったわけで、ここで書くべきことは、
 「不特定多数のことを考えない日記は、インターネットにはふさわしくない」 とか、「仲間うちどうしにしか伝えないメッセージは、インターネット上では日記ではなく、メールでやりとりするべきだ」とかいう価値観から、どうして「日記猿人アンケートへの不正投票」というような行動が発生するのでしょうか?
と、いうことですね。
</970926に追記>

 この価値観は、今でも変わりません。

 さて、「不特定多数のことを考えない日記は、インターネットにはふさわしくない」というのは、間違いです。なぜなら、Webは「不特定小数にドキュメントを表示するのに適したサービス」であって、「不特定多数にドキュメントを表示するのに適したサービス」ではないからです。現状のwebサーバが「多数」の同時アクセスに耐えられないのは、webを見ている人なら、誰でも知っているでしょう。本当に不特定多数を対象にしたコンテンツはWebではなく、テレビ、ラジオ等を使って知らせるのが正しい方法でしょう。特定のwebドキュメントは、可能性としては「インターネット上のすべての人からアクセスを受ける可能性があります」。しかし、それは、「インターネット上のすべての人からアクセスされる」ことや 「アクセスしてきたインターネット上のすべての人にとって有用である必要がある」ことは要求しません。特定のwebドキュメントが不特定多数からアクセスできるようになっているのは、その特定のwebドキュメントを有用だと考える不特定小数のアクセスを制限しないためです。確かに、特定小数への通信は、メールやMLなどのクローズドな手段を使う方が有効でしょう。しかし、不特定小数への公開に向いているメディアは現在のところwebしかありません。そのためにweb日記のような活動はweb上でしか、できないわけです。つまり「不特定小数のことを考える日記が、インターネット(Web)にふさわしい」わけです。「不特定多数のことを考えた日記」がWebにふさわしくないかどうかは、「多数」が実際にどの程度であるか、によるでしょう。
 以上、「不特定多数のことを考えない日記は、インターネットにはふさわしくない」という、ばうわう氏の価値観への反論です。

「仲間うちどうしにしか伝えないメッセージは、インターネット上では日記ではなく、メールでやりとりするべきだ」に関しては、まぁ、本当に「仲間うちどうしにしか伝えてないメッセージ」だとしたら、やはりメールでやりとりすべきかもしれません。(まぁ、双方が他人に見られるのを承知で、それを考えても、web上に公開する方が便利というなら、勝手にしろというしかないわけですが)。「仲間うちにしか伝わらないメッセージ」に関しては、接続してきた不特定多数な人の中から、メッセージが理解できる「小数」を選別するための道具、という考え方もあるでしょう。しかし、まぁ、普通に考えれば、わざわざ公開している日記に特定の人物への私信が書いてあるのは、相手と自分の関係を強調して「お友達であることを示す遊び」でしょう(^_^;;。特定の日記同士が、「ボクらは友達だもんね。相互言及してるもんね」ということを表していると。ばうわう氏はそのような日記を邪道と考えるのかもしれませんが、本来web日記の効用とは「個人の日記がweb上で読める」というだけでなく「他人の日記の中に、別の日記への言及があり、その別の日記の中にこれまた別の日記への言及がある」というような、リンク感覚でしょう。あるいは「ある日記の中に別の日記への言及があり、その日記の中には元の日記への言及がある」という、「生きたテキスト」の相互作用こそが、web日記がweb日記たる所以。その昔、須藤玲司が「HyperDiary」を提唱した時の定義が「日々更新される、相互言及され、相互リンクされたテキスト群」だったわけで、まぁweb日記とHyperDiaryが同じ物であるかどうかは議論がわかれるわけで、web日記でもHyperDiaryでない物は存在するわけです。しかし、HyperDiaryは間違いなくすべてweb日記なわけで、web日記はその歴史の最初期から、相互言及の遺伝子、つまり「日記読み日記」の遺伝子を持っていた、というわけです。
 と、いうわけで、仲間内日記を忌み嫌う、ばうわう氏には認めたくない事実かもしれませんが、友達と相互言及する遺伝子は、web日記の最初期から存在したわけです。そしてそれがweb日記を動かしてきた原動力の一つであるわけです。本当の私信をweb上で行う意義はないわけですが、私信に仮託した友人へのリンクを否定することは、HyperLinkMarkupLanguageで書かれたweb日記の本質の否定になりかねない、ということです。
 以上、「仲間うちどうしにしか伝えないメッセージは、インターネット上では日記ではなく、メールでやりとりするべきだ」という、ばうわう氏の価値観への反論です。

 もちろん、私の価値観とばうわう氏の価値観は違っていて当然で、また違っていても特に問題はないわけです。それにもかかわらず「間違っている」と書いたのは、上で指摘したように、ばうわう氏の信ずる価値観が、根本的にweb日記の存在意義の否定になるのではないか、と思ったからです。ばうわう氏が思い描いた理想の「日記猿人」がうまくいかないのも、ばうわう氏が日記猿人の管理者としてうまくやっていけなかったのも、ばうわう氏の持つ価値観(信念)が本質的にweb日記とそのリンク集に向いてなかったからではないか、と考えます。

最近、かなり、多くの人の日記が、日記ではなく、特定の人へのメッセージになってしまったように感じます。

 これは、何を指してるのかよくわかりません。それにしても、テレビ批評を「とほほ日記」と呼称して、日記であることに疑いを抱いてなかった、ばうわうさんにしては、どうにも「日記」の概念が狭すぎるように思います。身辺雑記であり、論文であり、エッセイであり、感想文であり、小説であり、詩であり、絵であり、写真であり、プログラムそれ自体であり、と変幻自在でありながら「日記としかいいようがない」とも言える「日記」という形式の可能性を、もっと感じて欲しいものです。

あれだけ反発があった「日記読み日記」は、ひとつのジャンルになっています。

<970926に改訂>
 まぁ、時期が時期だったから、なのかもしれないし、時代は変わった、ということかもしれません。しかし、私は「あれだけ反発があった」のは「日記読み日記」ではなく、「UDO」だと思うのです。皆が反発していたのは、ばうわうさんのUDOなのであって、日記読み日記全体に反発があったと考えるのは、ばうわうさんの過度の一般化では。
 それと、ばうわうさんの主張がどうもうまく、とらえられないのですが、ばうわうさんは「日記読み日記」を、どう考えているのですか? 肯定的にとらえていますか? 否定的にとらえていますか? 上の文章には、UDOがらみの記述で、予想もしない反発を受けたこと、その攻撃にキレたことは書いてあっても、自分でやっていた「日記読み日記」がよいとも、悪いとも書いてません。悪いのは、反発し攻撃した人らだ、と書いているだけです。ばうわうさんが良かれと思って始めた「日記読み日記」が現在では、ひとつのジャンルとして受け入れられてることに対して、ばうわうさんは、否定的なように見えますが、それはどうしてでしょうか? 日記読み日記がひとつのジャンルになったことを、あたかも「日記猿人が悪化した例」のように上げていますが、日記猿人が進化したととらえる方が自然ではないでしょうか。それとも、反発を受けたことから、ばうわうさんの中で、「日記読み日記」が無条件に悪い物になったのでしょうか?
</970926に改訂>

 「日記リンクス」がイヤで「日記猿人」を始めたのに、いつのまにか、「日記リンクス」に戻っていたのです。

 これは、「皆が望んでいたのは、日記リンクスだった」ということではないでしょうか。あるいは「皆が望んでいたのは、攻撃に強い日記リンクスだった」と。あるいは「皆は、ばうわう氏の望む『日記猿人』などは、望んでなかった」とか「ばうわう氏の考えをつきつめると、日記リンクスとかわらなかった」とか。けっきょく、望むと望まざるとにかかわらず、日記リンクスを殺した男とされている、ばうわう氏は、結局、その手で日記リンクスを再び創り出してしまったわけで、そういう意味では「日記リンクスを再生した男」なのかもしれないし、また、「日記リンクスに『日記猿人』というビジョンを殺された男なのかもしれません。

 「日記リンクス」を去った後、必死で考えた「日記猿人」という名称が、いま、こんな「仲間内の私信メッセージボード集」に変わってしまった。

 正直な話「日記猿人」というネーミングは秀逸です。しかし、名称をいくら必死になって考えても、結局、やっていたことをつきつめると、それは日記リンクスに到達する、ということだったのではないでしょうか? 日記リンクスとは違う特色として「管理者のカラーを前面に押し出し」「強制削除はなく」というのが上げられるかと思いますが、前者はUDOへの反発でばうわう氏が管理者を止めた時に失われ(池川さんが独自のカラーを出しているのは間違いないわけですが)、後者は、これまた、ばうわう氏によって、不可抗力的に行われ、そしてつい先日、自覚的に再度行われました。(参加者の総意だったかどうかは、謎ですが)。

 以上、630事件、812事件などを取り上げて、冷静でない記述もおりまぜながら書いてきたわけですが、ばうわう氏には、ぜひ「不特定多数を意識したweb日記」を追求していただきたい。「webは不特定小数向きだ」と主張し、また「webはテレビではなく、同人誌である」というのが私の持論なのですが、個人のwebページをエンターテイメントとしてとらえて追求するばうわう氏の姿勢は、必ずや、web日記、いやweb全体になにがしかの成果を残すと思います。1000アクセス/日という数字のどこまでが本当でどこからがリロードのタマモノなのか疑惑は若干残るわけですが(^_^;;。日記リンクスや日記猿人と無関係に一日1000人の読者がいるわけで、それをはげみにして、がんばっていただきたいな、と。もちろん、日記リンクス、日記猿人に関して意見するのは、ばうわう氏の自由です。けれども、筋の通らない主張、事実と違う記述をされた場合には、しつこいようですけども、批判・反論させていただきます、ということを述べて、今回の文章を終わりたいと思います。


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